● 月灯りを吸い込んで、仄かな銀色。 風に揺らめいて覗くのは、蒼より深い夜のいろ。 その湖面には、魔法が掛かっているのだ、と誰かが言った。 覗いて見えるのは何なのか。 覗いて見たいのは何なのか。 望むものを。望まないものを。揺らめく向こうに映す水面。 冷え込み始めた風が吹き抜けて、それ以外に音は無くて。 湖面に船を浮かべてみようか。 水際で語らうのも悪くは無い。 人の手の殆ど入っていない其処は、何時だって美しい侭に、訪ねてくる誰かを待って居る。 ● そこは、とても美しい場所なのだ、と。 目を細めて。『常闇の端倪』竜牙 狩生 (nBNE000016)は言った。 人里離れた場所。余り知られていない、私有地の中にある湖。英気を養いがてら、訪ねてみないか。 そんな誘いをかけながら、 青年はふと、思い出した様に指を立てた。 「――その湖には、面白いものがありまして」 潜っても見えぬ水底のどこかに埋まる、一つの神秘。 それは、幻想を見せるのだ、と。 「見たいもの。見たくないもの。どちらなのかは分かりませんが、それは君達にだけ顔を見せる」 手を伸ばせば、消えてしまう。ただ、映り込むだけの淡い幻。 見に行ってみないか、と男は誘う。 「ボートもありますし、温かい飲み物と、軽食はご用意いたします。……もし宜しければ」 そんな一言を残して、青年はブリーフィングルームを後にした。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:麻子 | ||||
■難易度:VERY EASY | ■ イベントシナリオ | |||
■参加人数制限: なし | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2012年10月28日(日)22:33 |
||
|
||||
|
||||
|
● きらきらと、跳ねた飛沫が月明かりと交わる。 青味を帯びた美しい水面に浮かぶ、幾つかの舟。 そのひとつで。ティアリアは周囲の光景に静かに目を細めた。 闇の中で揺らぐ水面は、どこか不安を煽るものだ。其処にあるはずなのに、見えなくて。 其処の知れないそれに気付かぬうちに飲まれてしまいそう、なんて。少しだけ笑い声を立てて。 共に舟に揺られる響希に差し出したのは、手作りのサンドイッチと暖かな紅茶。 「ティアリアサンはさ、うん、……心配りが完璧よね……」 あたしなんも持って無いけど。微かな苦笑と共に受け取って、一口。バランスの良い味に思わず表情が緩む。 それを横目に見ながら、ティアリアが手に取ったのはコニャックの小瓶。 一滴、二滴。漂う湯気と共に広がる甘やかな香りに、興味深げに首が傾げられた。 「そろそろ寒くなる季節だものね。……響希も使う? おいしいわよ」 やってみる、と差し出されるカップ。漂う甘い香りに浸れば、ふと途切れた会話にティアリアの視線は緩やかに水面を見下ろした。 見たくない、ものだった。目の前で零れ落ちていく愛しいいのち。生命の終わりは余りに呆気無く、自分は余りに、無力だった。 もし。今の自分があの日に居たなら。そんな問いは意味を成さない。だからせめて、もう同じ事は繰り返さないと、彼女は固く誓っていた。 「……何か見えたの?」 「……面白いものは、見えなかったわね。響希はどう?」 あたしも全然。苦笑い気味に振られた首に、気が合うわねと笑って。 少しだけ重さを帯びた空気を払う様に、ティアリアは微笑む。 「慧斗とも来てみたかったわね。あの子は元気?」 思うのは、あの日救った小さな手。今は一応、療養中かな。と言う返答に、少しだけ安堵の吐息が漏れた。 失わない、と決めていた。もう何も。紅の瞳が瞬く。あの細い手を、また握れる様に。思いを馳せる様に流された視線は、緩やかに伏せられた。 何をしよう、と考えて。思いついたのは、舟に乗って湖に漕ぎ出でてみる事だった。 ゆらゆらと。揺れるままに身を任せ、アルフォンソは1人、思いを馳せていた。 過去の自分。今の自分。自然と浮かび上がってくるその二つの対比に、少しだけ苦笑が漏れた。 非才であったが故に、自分の得た力に自信を持てずに過ごしていた日々。 それは、箱舟に来た今でも、心の奥底に眠っていた。 ぐるぐると思考は巡る。対比して、結果から、思うこと。自分は本当に変わっているのだろうか。 「……悔やむだけの日々を過ごすつもりは有りません」 ぽつり、と自然に漏れた言葉。その通りだった。誰にでも過去があるように。誰にでも未来はある。 それが見えないものだったとしても、前に進む事は出来るのだから。 白い髪が風に揺れる。今出来る事は、ただ只管に進む事だけなのだろう。 秋めいていくにつれて、木々は色鮮やかに染まっていく。 それは、この湖の近くも同様で。暗闇の向こうに微かに見える色に、凛子は興味深げに視線を投げる。 初めて乗ったボート。デートの定番、だなんて言われているが、それはもう随分昔の話の気もした。 そんな彼女の横顔を見遣って。リルは小さく、深呼吸をしていた。 夏以来、少し意識しがちで。もうちょっと自然にとは思うものの。自分から誘ったボート遊びの筈がどうも、落ち着かなかった。 ぱしゃぱしゃと、尻尾が水を叩く。どうにもそわそわとした様子に、凛子が気付かないはずも無く。 「こういうデートいうのも良いものだと……」 びくり、と跳ねた肩が見えた。デート、と小さく復唱した身体がバランスを崩したのを、優しく受け止めてやる。 慌ててはいけませんよ、と微笑む顔はやはり優しくて。リルは少し迷う様に視線を動かして、そのまま思い切りよくその身体に抱き付く。 暖かい、と思った。彼女の口から、デートなんて言葉が出てくるのはとても嬉しい事だけれど、驚きもあって。 「……落ち着くッス」 何とか搾り出したのは、小さな声。そのまま甘える様に擦り寄り、尻尾を揺らす姿に凛子の目は優しく細められた。 ひげを擽ったり、その温もりを楽しんだり。何処か楽しげな様子に気付きながら、リルは控えめに口を開いた。 「……凛子さん温かいッスね」 「リルさんも温かいですよ?」 温かくて、ほっこりしたのは、身体だけではなくて。自然と穏やかになる心に少し、表情が緩んだ。 たまには素直に甘えるのも悪くは無い。 言葉はもう無かった。ただ静かに身を寄せて、流れていく畔の景色を眺める。 静かなそこで、2人きり。たっぷりと流れていく時間を感じながら、2人を乗せたボートは流れていく。 ● ふわり、と甘い香りが冷たい空気に広がる。 注がれたチョコレート色のそれを差し出して、こじりは贅沢ね、と呟いた。 「涼しくなって来たから、体、冷やさないように」 気遣いと共に差し出されたそれを受け取った夏栖斗はボートを漕いでいた手を止めて、それを受け取った。 ありがとう、と告げた声を聞いているのか居ないのか。口内に広がる甘さに一息つきながら、こじりの視線は静かに湖面へと流れた。 思いついた様に覗き込んで。揺らめく其処に映る煌きを、静かに指差した。 「なにかいいもの見えた?」 「見て、御厨くん。まるで銀盤に映る月みたい」 問いかけと共に寄ってきた彼が、湖面を覗き込む。揺らいで、一瞬何かが見えそうになった、瞬間。 重心が傾く。捕まる暇も無く、冷えた水の中に飛び込んでいた。慌てて上がろうとする夏栖斗をこじりは容赦なく踏み踏み。 「ぶばっ?! ちょ?! なにすんの?! ぱんつみえる、みえる! 踏んで! ……いやそうじゃなくて」 慌てた夏栖斗の声など耳に届かないのか、冷たい? と聞けばそういう問題じゃない、と息も絶え絶えの返事。 少しだけ、目が細められた。そう、と小さく呟いて。華奢な体もまた、湖の中へと消える。 「これで少しは、暖かい?」 抱き締める。周囲の水は冷たくて、けれど触れる体は温かかった。ボートの影で、2人きり。 映画のワンシーンのようだ、と笑えば、そんな映画見た事無いよ、と笑う声。 「まいっか、風邪ひかないようにしないとね」 ま、僕はこじりに常にお熱だけどさ、なんて。主人公顔負けの気障な台詞も一緒に、風が攫っていく。 ぱしゃぱしゃと、オールが水を跳ね上げる音がする。 初めてのボート。狩生を誘ってみたものの、落ちてしまわないだろうか、と不安げな顔をした那雪も、随分と慣れた様子で興味深げにボートを漕いでいた。 「こういうの、のったこと、ある……?」 あんまり想像出来ない。そんな問いに、オールに手をかけた青年は少しだけ笑って頷いた。 「何度か、若い頃に。デートの定番、と言われていた頃とでも言えば良いでしょうか」 随分と懐かしい。そう笑ってその手がボートを漕ぎ出せば、漸く真っ直ぐ進むそれに、那雪の眉が下がる。 難しい、と肩を落として湖を覗き込めば、見えたのは自分と同じ顔だった。 「久しぶりにみた、わね……」 思わず、呟いた。双子だから同じ顔だけれど。見間違うはずも無かった。 ゆっくりと、視線を外す。彼女につられたように湖を覗いた狩生と視線が合って、緩く、首を傾ける。 「狩生さんも、懐かしいもの、見れた……?」 銀月の瞳が、瞬く。懐かしいもの、と薄い唇が復唱するのを見て、那雪は何も言わずに、手袋に包まれた手を撫でた。 詳しく聞くつもりは無かった。けれど、撫でる事は出来る、と思った。 大人の男性の頭は撫でちゃ駄目、って誰かが言っていたから、と呟けば、青年は本当に僅かに、安堵した様に微笑む。 「構いませんよ。……遠い昔が見えました。私も歳を取ったんですね」 此処は冷えるから、戻りましょう、と。告げた手がゆっくり、オールを動かす。 添えた手は払われなかった。ボートはゆっくりと、水面を滑っていく。 こんな夜は是非、言葉を交わしたい、と。 何時もの様に少しだけ気障に誘った亘の言葉に、響希はおかしそうに笑って頷く。 恭しく手を差し出せば、重なる長い爪。そのまま抱え上げて、湖の上まで宙を舞った。 「ふふ、こういうのもたまには良いでしょう?」 酷く驚いた顔に笑って告げれば、響希は仕方の無い子、と笑う。 ボートに腰掛けて。笑いながらかわす言葉は尽きない。 そんな中で、嗚呼そういえば、と亘は水面を示した。 「ここの湖面に幻想が見えるらしいですね」 興味が無い、と言えば嘘になる。だから、目の前の響希に共に覗いてはくれないか、と告げれば、少しだけ間が空いて、了承の声が返った。 せーの、の声に合わせて覗き込んだ。湖面が揺らめく。 見えるものが人によって違う事は、亘だって知っていた。だから、隣の彼女が何を見るのかも、分からない。 それでも、二人で見たかったのには理由があって。 「ああ、はっきり見えました」 視線が此方を向く。少しだけ照れたように笑って、亘は言う。 「自分と貴方、今と一緒で幸せそうに笑ってました」 こんな風に言葉を交わして、笑い合っていたのだと。告げる言葉に、少しだけ硬かった響希の表情が緩む。 「もう、天風クンはやっぱり気障だわ。……ありがと」 中々楽しいわよ、あたしも。視線を上げた。銀月はまだ傾かない。朝が遠いわね、と、呟いた声が水音に混じる。 漕ぎ出したボートは、程なく湖の真ん中へ辿り着いていた。 ゆらゆらと、水の揺らぎに身を任せて。フラウはただ、水面を見つめ続けていた。 共に過ごすような人も居ないから、とたった一人で来たけれど。案外、悪くは無かったかもしれない。 水面が揺れる。映り込んだ銀月のきらめきだけが、視界を満たしていた。 嗚呼。やはり。 「結局何も映してはくれないっすか。まっ、当然っすけどね」 空っぽなら、何かを映すなんて出来る筈も無いのだから。 胸の内で呟いて、持って来ていた珈琲に口をつけた。少し苦いそれが、口の中に広がる。 うまく口に出来ない感情だった。溜息を漏らす。嗚呼、もしまた来る機会があるとするなら、その時は。 本当に望むものと言う奴を、自分なりに見つけていられると良い。 瞬きした。揺らめくような月明かりだけがずっと、その瞳に映っていた。 ● 飴細工の様な金髪が、冷たい風で揺れる。 「……お待たせしました、申し訳無い」 囁く程の声。振り向いた先に立つ漆黒の青年に、エレオノーラは問題ないと首を振った。 待つのは慣れているから。そんな言葉に、此処は冷えるのだから、と申し訳なさげな声。 「それより、もう怪我は大丈夫なのかしら?」 本当に馬鹿な事をする。論理戦闘者であろうとも、まさか自分を庇う事など計算の内にも入れないだろうに。 その結果負った傷を示す様に視線が動けば、青年は少しだけ、困ったように眉を寄せた。 「……貴方が怪我をするのは、出来れば見たくなかったのですが。しかし、そうですね」 もし逆の立場であったなら。自分は間違いなく、この少女の様な友人に同じ事を言っただろう。 感情的に動いてしまった、と呟いた声に、少しだけ表情を緩めて。エレオノーラはそっと、口を開く。 自分は前衛なのだから、体を張った結果怪我をするのは仕事の内なのだ、と諭して。 「でも、ありがとう。うん、借りはその内返すわ」 本当に、時々突拍子もない事をしてくれる。あまり心配させないで欲しいわね、と言う言葉には、返す言葉も無いと苦笑するのが見えた。 少しだけ、空気が軽くなる。こんな話はもう終わりだ。もっと楽しい話をしよう。 例えば、今度はどこに遊びにいこうか、何て事も。 言葉を交わしながら、水面を覗く。輪郭を結んだ幻影に、エレオノーラは何も言わずに目を細めた。 「……何か見えましたか」 「……内緒」 教えてあげないわ、と。少女と言うには随分と大人びた笑みを浮かべる。残念ですね、と返る声にも含まれる、少しの笑み。 銀月はまだ天井高くに上っていた。煌く水面が、風でざわめく。 望むものが見えるらしい水面。なら、願うはひとつ、えろえろな幻影! 兎に角湖を覗きまくってやろう、と心躍らせていた竜一は、水面を覗いたまま一瞬、動きを止めた。 即座に叩き込まれる拳。揺らいで掻き消えたそれから目を逸らして。 「……場所移動して別の幻影を見に行こう」 見ては叩き、移動して。それを繰り返し。 もう何度繰り返したのだろう。分からなくなった頃。再び見えたそれに、竜一は叫びと共に水面へと顔を突っ込んだ。 見え続けるもの。救えなかった幾つもの顔に、吐き出せない思いが溢れそうになった。 そんなの見たくも無かった。正義の味方でも、良い人でもない自分は、彼らと変わらない小市民に過ぎない。 だからこそ、救い切れないのかもしれないけれど。こうして心の奥底に張り付いて、離れない鎖が有るのかもしれないけれど。 けれど。救えなかった事を後悔しても、救えた筈だと思う事は余りに傲慢なのだ。 あるのは事実だけ。冷たい水が、頭を冷やしていく。 誰かに言える事ではなかった。此れは、自分だけの問題だった。 何時も通り深く、深く、己が内に溜め込むのだ。後悔も、湧き上がる思いも全て。 顔を上げた。水が滴り落ちる。揺れる水面に映ったのは、自分の顔。 大丈夫だ、と呟いた。大丈夫。すぐに、何時もの自分に戻るから。濡れた髪を、冷たい風が冷やしていくのを感じた。 「こんばんは。いい夜だね」 気が向くままに湖の畔を歩き回って。ふと、目に付いた見知った顔に声をかけた悠里は、此方を向いた赤銅に人好きのする笑みを浮かべた。 「あら、1人なのね。珍しい」 可愛い彼女さんと一緒じゃないの? 少しからかうような口調に笑って、この間だった筈の誕生日の祝辞を告げた。 歳ばっかり取っちゃうわねぇ、と軽い声が返る。 「今年はお祝いに行けなかったけど、来年は何か考えとくから期待してて!」 まぁ、彼女持ちだし期待は程ほどにして欲しいかもしれない、何て惚気も忘れない。 そう言えば一日違いね、と呟いて、響希は面白そうに目を細めた。 「人の恋路を邪魔するものはなんとやら、って言うでしょ」 どうぞお幸せに。少しだけ羨ましそうに目を細めた姿を見遣って、そういえば、と悠里の視線は湖へと移る。 もう湖は覗いた? と問いながら、自分も湖面へと顔を近づける。揺らめいた其処に映ったのは、笑顔だった。 恋人の。家族の。友人の。そして、数え切れないほどの知人の、幸福そうな笑顔。 嗚呼。自分はこれの為に戦っているのだと、再認識した。これを、護る為にこの力はあるのだと。 「……家族かな。設楽クンは、何か良いもの見えた?」 投げられた問いに、眼鏡越しの瞳が優しく笑う。 「僕は自分が何の為に戦ってるか確認しに来たって感じかな?」 少し気障かもしれないね。照れたように笑った顔に、良いんじゃないの、と返る声。 映るものは様々で。それが心を支えるのかどうかは、やはり人それぞれだった。 最近は怪我ばかりで、運命の寵愛が磨り減っている事を感じながら。エーデルワイスは1人、岸辺に腰を下ろしていた。 肉体よりも、精神の休息を。そう思って眺める湖面は美しくて、折角なら、何処かに留めようと思った。 絵心なんてものは無くても、秋だし。たまには芸術も悪くない、と、鉛筆を握った指先が、目の前の光景を描き出していく。 揺らぐ水面が、自然と目に入る。形を結んだ幻影は、自分だった。 鮮血に彩られていた。破壊と混沌が常に共にあった。そんな、あるかもしれない未来のひとつ。 笑いが、漏れた。絵の中の水面に、それすら確りと描き出した。写生なのだから、全て忠実に。 「これが私が望む姿なのかな? それとも……」 答えは持っていなかった。さらさらと、描き出す彼女の前で。 もう1人の彼女は何時までも、楽しげに笑っていた。 ● 水際。こうしてのんびりと過ごすのも、嫌いではないと火車は思う。 話に寄れば、この湖面は随分と面白いものらしいが。覗こう、と言う気も起きないまま、静かに珈琲に口をつける。 足音が、聞こえた。振り向けば、目に入るのは顔を見た事のある予見者。どーも、と振られた手を見遣って。 「アンタなんかこんな所来なくても 予知で見えちまうんだろ?」 まるで夢でも見るように。未来を垣間見るその力。投げられた問いに、響希はそうね、と肩を竦めた。 「……オレには解りゃしねぇが 見えちまうってのはあんま気分良いモンでもねぇんじゃねぇの?」 望むも望まないも無く見えるのはどんな気分なのか。そんなの想像もつかないけれど。交わった視線に、予見者は微かに笑った。 そうね、と。もう一度返された肯定。 「変えられない未来なんて見たくも無いと思ってるけど。……まぁ、あんたらが頑張ってくれてるしねえ」 お互い様。寧ろこれ以外で力になれない事が少しだけ悔しい、と呟いた響希からゆっくり視線を外して。 揺れる湖面を遠目に見遣った。覗く気には、なれなかった。 見たいもの。見たくないもの。そんなの言われなくたってもう分かっているのだから。 冷たい風が頬を撫でる。気付けば人の気配はなくなっていた。空になった珈琲と、冷たい夜風。 ふと。指先が常に持ち歩く煌きに触れた。 「……いつもあったけぇなぁ オマエは」 夜闇に灯る焔の残滓。燃え盛った彼女と言う命の、残り火。火は消えなかった。目を瞑る。溜息が、零れ落ちた。 水面に写るのは、ひとりだけ。けれど心は二人何時でも一緒です。 何時もの様に脳内お兄ちゃんに語りかけ続ける虎美は今日も絶好調。 「お弁当もちゃんと用意してるから楽しみにしててね」 なんて答えて下さっているのか私には到底分かりません。2人きり(注:1人です)で過ごせる場所に腰を落ち着けて、湖を覗いた。 その間も言葉は止まらない。ねえ何が見える? えっ私? お兄ちゃんの事しか見えないよ! 勢い余ってそのまま湖面全てにおにいちゃんと私の愛のメモリーを展開しようとしたそのとき。 「……お2人の幸せは邪魔しませんが、」 かかる、部外者とも言うべき声。夜闇から滲み出す様に彼女の後に立った狩生は、緩やかに首を傾ける。 「今日だけは、その愛の語らいはお2人だけでお願いしたいですね」 見せ付けるのはまた別の機会に。どうぞご理解を、それだけ告げて、青年は何処かへ歩き出す。雰囲気、と言うのも時には大切なのである。 御龍が、ジョンが、それぞれ思う所を胸に秘めながら湖を眺める。其処から少しだけ離れた場所で。 達哉はたったひとり、湖面を見つめていた。 優しく微笑む顔が見えた。ただ只管に幸福な姿が其処にはあった。会いたかった人。契りを交わした、愛しい人。 もう13年。繋いだ筈の約束は、果たされる事無く此処まで来てしまった。 取り戻したいとどれほど足掻いたって失われたものは戻らない。あの日さえなければ。どれ程そう願っても、もしもはもう起こらない。 約束は果たせない。彼女との愛のしるしとも言うべき娘達も、もっと違った生の形があった筈だったのに。 出てくるのは後悔と、怒りがない交ぜになったものばかりだった。 指先が伸びる。触れられそうな程近かった筈のそれがあっと言う間に掻き消えて。何もつかめなかった指先はそのまま、愛用のキーボードをきつく、握り締めた。 「僕も脆いな……いい大人がみっともない……」 自嘲が漏れた。湖面ではまた、幸せそうな彼女が笑っている。名を呼ぶ声が聞こえた気がした。記憶は色褪せない。なのに、この手は届かない。 自分は、彼女の望むような人間になれているのだろうか、と思った。 へたれで残念だけど、優しくて格好良い。そんな人に、なれているのだろうか。 答えをくれる筈の人は、もう居なかった。 本当の答えは、もう永遠に分からないままになってしまったのだと痛感して。それでも、達哉の瞳は湖面を見つめ続ける。 幸せに微笑んだ彼女の愛しているが、聞こえた気がした。 バスケットと水筒が、ボートの縁と触れて小さく音を立てる。 不慣れなそれは難しくも面白かった、と笑った響希に、湯気の立つお茶を差し出して、ミリィも少しだけ微笑んだ。 もし良かったら、とかけた誘いに、勿論、と応じた響希の前へと広げられた美味しそうな軽食に、驚いた様に赤銅が瞬く。 「……ミリィチャン、料理上手なのね。サンドイッチ頂戴」 「お口にあったら、良いのですが」 手にとって、一口。凄く美味しい、と表情を緩めた姿に、少しだけ安堵の息を漏らした。 十分にお腹を満たして、話が途切れた頃。ミリィは静かに、湖面を覗いて見ませんか、と呟いた。 そうね、と小さな了承。銀月が揺らめく湖面を覗いた。ふわり、と浮かび上がったのは、家族の姿だった。 温かな家庭。優しく微笑み交わす両親。自分の名前を呼ぶ声は暖かくて優しくて、愛しているよと告げているようで。 心の底から、望むものだった。けれど望み続けても決して、手の届かない物だった。 もしも。変わってしまった自分を、受け入れてくれたなら。こんな未来があったのだろうか。 分からなかった。指先を伸ばしかけて、けれど触れる前に掻き消えたそれに、ミリィは我に返る。 嗚呼。悲しいくらいに知っていた。もしもは無い事を。伸ばしかけた指先を、自分の胸へと引き寄せる。 目の奥が痛かった。滲んだ視界。眦から零れ落ちそうになるものを、必死に飲み込んだ。 「……きっと、一人で見るのが怖かったんですね、私は」 押し殺した声。それは、その歳の少女には余りに不似合いに張り詰めていて。 流れ落ちる金の髪に、そっと、少し冷えた手が添えられる。 「何時も頑張ってるみたいだし、……こう言う時は、無理をしなくても良いのよ」 子供で居られる時は長くは無いんだから。ミリィの表情を覗う事無く。その手はただ、髪を、背を撫でる。 静寂が落ちた。灯りの瞬く岸は、随分遠い気がした。 「今日も世は事も無し。夜は言も無し。って感じ?」 嗚呼風情がある。ボートに身を委ねて、1人きりで月見酒。 静寂と共に飲む生命の水はまた格別で、宵子に生の実感を与えてくれる。 一度死んだからこそ、余計に。 そう言えば、幻影が見えるんだったか。誘い文句を思い出して身を乗り出す。ふわり、と形を得たのは、過去だった。 宵子が、仁義宵子で無かった頃だった。 凄惨に凄惨を重ねた日々。血と埃に塗れていた。まるで、粉塵の如く命の灯火を掻き消していた頃だった。 その末に、自分は此処に辿り着いて。積み重ねた行いを清算するように『殺され』て―― 「今に到る、か」 払った手が、水面を掻き乱す。幻影はあっと言う間に消えた。一気に、酒を流し込んで、硬い床へと身を倒す。 分かっていた。過去が無くならない、なんて事。意識が揺らいでいく。 嗚呼。だから、自分は。其処まで考えて。その先は、続かなかった。 ● 遠くで、水面が揺れていた。淡く光るそれに目をやって、ミカサは微かに目を細める。 変化が与えたもの。そして、その代償。それを見に行った先を思い、けれどすぐに首を振った。 並ぶ足音。息抜きだと言えば少し心配げな顔をしながらもついてきた響希が水辺に行かないのか、と問えば頷く。覗こう、とは思わなかった。 「望んだ物なら、触れられないのは寂しいだけだ」 何が見えるか、なんて覗かなくても知っている。何時だって。思い返す度に、『望むもの』は笑っていた。 どれほど望んでも掴めやしないのに。ただ悲しい程幸せそうに彼らは笑う。それが、辛かった。 「響希ちゃんはもう見たの?」 問いかけに、赤銅の瞳が緩く伏せられる。家族が居たわ。端的に告げられたそれに、ミカサは多くを追求しない。 ただ、そうか、と返して。落ちる沈黙。冷え始めた風が頬を撫でて、漸く冷たくなった指先を感じた。 「……何か、暖かい物でも貰いに行こうか」 差し出された手。冷たくなり始めたそれも、繋げばきっと寒くは無い。それに。 少しだけ口元を緩めて。交わった視線はその侭に、彼は首を傾ける。 「触れられないのは寂しいだけと言った筈だよ」 その声音に含まれる微かな色に、響希は少しだけ目を細めて。その手がそっと乗せられる。ねえ、と、吐き出した吐息は少し白かった。 「なあに、あたし望まれてんの?」 くすくす、笑う声に緩む空気。何時かの様に額を軽く叩けば、不服と言いながら笑う顔。 この顔が見れるなら、それで良い。歩き出しかけて、不意に。引かれた手に重心が傾く。 「――あのね」 表情は見えなかった。胸元辺りに触れる額。少しだけ震えた吐息と一緒に、繋いだ手に力が篭る。 「あたしは、貴方が好きだけど」 本気で望んだら、貴方逃げてしまうんでしょう。上げられた顔に浮かんでいたのは、やはり笑顔で。 結んだ手が解かれた。まだ具合良くないんだから、早く戻りましょう、と。告げた背中は振り向かない。 世界は痛みで出来ていて。変化が齎したのは苦悩だった、なんて。 他人事だなんて笑えないわね、と、呟く声は何処に向けたものだったのだろうか。 アールグレイが香る。畔に静かに腰掛けて、雫は月明かりと、暖かな紅茶を楽しんでいた。 悪くは無い誘いだった、と思う。豊かな香りを吸い込んで、ふと。思い出したように、その身を乗り出す。 覗き込んだ水面。ゆらゆら、揺れるそこに浮かんだのは、幼い自分。そして、もう居ない、父と母。 其処は幸福だったのだ。リベリスタの両親に愛されて、しあわせに、育っていく筈だったのだ。 13年前。忌まわしいあの日。父も母も、リベリスタとして、己の務めを全うして、その命を消した。 ほんの少し前までの暖かい日々を根こそぎ攫っていった惨劇。人々の嘆き。喪失。孤独。それは全く同じ様に、もしかしたら酷く重く、雫にも降り掛かったのだ。 孤独に心が折れぬ様に。只管に修練に打ち込んだ。精進すると決めた。気付けば、両親と同じリベリスタへの道を歩んでいた。 「……父さん、母さん」 自分は、2人に恥じないような、立派な娘になれているのだろうか。 答えは得られない。そんな事は知っていたけれど。瞑目した。静か過ぎる程の空気の中で、微かに。 仲間の、声がした。顔を上げる。月明かりが少し眩しくて。散り散りになった仲間達の声は酷く遠い。 何気なくて、少し騒がしくて、けれど愛おしい日常。 いかなくては、と思った。立ち上がる。答えは得られないけれど。 自分の生きる場所は既に、此処にあるのだから。 二人並んでベンチに腰掛けて。広げてみたのは、手作りのお弁当。 「珍しく早起きしたわけなのだけれど……悪くはなかったわ」 早起きも、手作りのお弁当も、そして、誰かに見せて一緒に食べる為のお弁当も。 糾華にとっては全てがとても珍しいものだけれど、案外と悪い気持ちはしなかった。 新鮮なレタスやトマト、ジューシーなベーコンエッグ、定番のハムチーズ。 彩りも綺麗なバゲットサンドをひとつ、セラフィーナに差し出せば、嬉しそうに彼女も笑った。 「わあ、糾華さんのお弁当もとっても美味しいです!」 自分のも早起きした自信作だ、と、渡すのは可愛らしいたこさんウィンナーや、綺麗に色づいた卵焼き。 見た目も味も申し分ないそれに、糾華も少しだけ微笑んだ。 「セラフィーナのも美味しいわ。こういうお弁当も良いわね」 かわす言葉は、何処にでも居る少女のそれで。今日は、互いの事を話そう、と告げたセラフィーナは、酷く楽しげに目を細めた。 「私、機械いじりも好きですけど、料理も大好きなんです」 何かを創る、と言うのはとても楽しい事だ、とその瞳は輝く。イメージした完成形に近づけていくのに心は躍って。 完成すれば、湧き上がるのは喜びだ。まるで目の前にある様に語るセラフィーナに同意を示して、糾華はそっと、視線を下ろした。 こんな風に。普通の少女の様に過ごす自分は、なんだか何時もと違う手触りの服を着ているようで。 けれど、それが悪い事だとは思わなかった。 「昔は本当捨て鉢だったけれど、私は変わったのでしょうね」 ぽつり、と漏れた言葉。その変化は緩やかで、けれど、気付けば大きなものになっていた。 視線が交わる。そっと、微笑んだ。 「アークに来て良かった。自然の私で居られるのは、ステキよね」 「はい。自然な糾華さん、とっても素敵ですよ。思わず、もっとおかずあげたくなっちゃうぐらいです」 くすくす、笑いかわす。お弁当箱に乗ったたこさんウィンナーはやっぱり可愛らしくて。 もう少しだけ、この時間が続くのも良い、と思った。 見たいものも、見たくないものも見える湖。終が覗き込んでみれば、やはり、と吐息が漏れた。 予感通り。見知った2人の顔が、此方を見つめている。 久し振り、と呟いた。答えはないと知っているけれど。終は、言葉を止められなかった。 少しだけ。ほんの少しだけ、弱音を吐かせて欲しかった。 また、護れなかった。また、助けられなかった。その事実が、胸を締め付ける。 自分がどれ程望んでも、ハッピーエンドが得られない。緩く首を振って、幻影を見つめる。 「……神様はいけずだよね」 終の事はどれ程望んでも連れて行ってくれないのに、終が助けたい、護りたいと願ったものは容易く連れ去っていく。 静かだった。幻影だけが、何も変わらないまま優しい笑顔で、終の言葉を聴いていた。 死にたい、と呟く度、何度でも優しい約束を交わしてくれた2人。 誰よりも誰よりも大好きな、親友達。 もしも、運命の加護が2人にあったなら。気まぐれな女神が笑っていたなら。未だ、一緒に居た筈だったのに。 本当に、神様はいけずだった。 「……ねえ、頑張るよ。もっと頑張る。……だから」 今だけ、傍に居て。消え入りそうな声だった。手の届かない幻影は優しく笑う。約束を交わした日の様に。 岸辺で跳ねた飛沫が、終の頬を伝って落ちた。 ● 手を繋いで、2人きり。畔を静かに歩く宗一は、繋いだ手の温もりにそっと、溜息をついた。 この温もりが、確かに隣に居てくれる事が、彼に生の実感を与えてくれる。大事な温度だった。存在、だった。 「互いに、無事でよかった」 激戦の直後。少しでもゆっくり出来る時間は大事で。それも長くは続かない。 宗一の言葉にそうだね、と笑って。けれど、霧香の心は少しだけ、沈んでいた。 楽な戦いではなかった。そして、またすぐに始まる、辛い戦い。 自らの選んだ選択だけれど。向き合わなくてはならないけれど。それは、心に重く圧し掛かる。 足を止めた。折角だから、と水際に屈んで。そっと、湖を覗いた。 「あたしには、宗一君には、何が映って見えるんだろうね」 ふわり、と煌きが輪郭を帯びる。見えたものに、霧香は幾度か、瞬きして。幸せそうに目を細めた。 手を、繋いでいた。今の様に。2人で、歩いていく後姿。 望んでいるものだった。この心の深い所で。どんな意味を帯びているのかは、分からないけれど。 心の底から望む、幸せな未来だった。結んだ指先に、力が篭る。 それを感じながら、宗一は微かに首を振った。見えたもの。ずっと、ずっと見続けていた、自分の死だった。 温度が失われていく。思考も、意識も、全てが闇に溶けて行く。仕方の無い事だと、思っていた。 戦い続ける限り。その中でこの命が尽きてしまうと言うのなら。けれど、今はもうそんな事を望めなかった。 手を、確りと握りなおす。絶対に離さないと、決めていた。手を繋いで、ずっとずっと。共に、先へと行くのだと。 それは、戦い続ける者同士が交わすには余りに脆い誓いだけれど。 「……何が見えたの?」 「……もう、見るつもりのないものが見えたさ。霧香は?」 ひみつ、と笑った彼女を見つめる。手を引いて、少しだけ驚いた表情ごと確りと抱き締める。 今夜は帰さない。囁くような声に、霧香の腕が背へと回る。 一緒にすごそうね、と答える声が何時もより少しだけ震えていたのは気のせいだろうか。 望んだ未来を。共に歩いていこう。重なった影は、暫く離れなかった。 「……本当は静かにしているだけでも良かったんだけれど」 2人きり。人気の少ない水際を選んで狩生を誘ったよもぎは、不意に口を開いた。 銀色が此方を向く。良い機会だから、と口にしたのは、夏に交わした言葉だった。 傷つけるつもりは無い、と紡がれた言葉に、心は揺れた。そして、見えてきたのは自分の確かな気持ちだった。 少しだけ、笑いが漏れる。 「でもね、ひとつ杞憂だよ。……同じ気持ちを返してもらおうとは思ってない」 自分が、恋とも言うべき感情を抱いていても、狩生が自然体で居てくれる方が嬉しいのだと。 其処まで告げて、よもぎは少しだけ気恥ずかしげに笑う。 「散々心配していたのは離れていかれることだったからね……これはちょっと子供っぽいかな」 視線が交わる。そんな事は無いと思いますが、と告げられた言葉に笑って、視線を水辺に投げる。 無理に気持ちを返してくれる必要は無いし、何時か気まぐれに返してくれても良い。 そんな、緩い関係が良いと呟いた。 「気張らない方がきみとの会話は楽しそうだ」 「……君がそれで良いのなら、その様に」 楽しんでいただけているのなら何よりです。青年が微笑う。再び、静寂が落ちた。 蒼い水面に沈めた糸が、ゆらゆらと揺れている。 何かがかかる訳でもなく。ただぼんやりと、竿を握ったまま。モノマは水面を眺めていた。 高校の頃。力を得て暫く経った後。有り余る力の前に、まともな喧嘩相手なんてもう居なくて。 退屈し切った頃に、出会いはあった。 ――つまらなそうな顔してるな、ひどくシケた面だ。 喧嘩を売られたのだと思った。挨拶代わりに喰らわせた頭突きで、容易く気絶するような奴だった。 なのに、そいつはずっと絡んできた。弱い者いじめをしないと決めていたモノマが放置すれば、気付けばつるんでいた。 ――何処まで強くなる気だ? その問いには今でも答えが出せない。特に、目標なんて無かった。 ただ、自分が何処までやれるのかを知りたかったのだ。 竿を上げた。魚はやはり、釣れていなかった。 「……俺は俺の限界を知りたいのかもしんねぇな」 答えは見えない。呟きだけが、揺らぐ水面に溶けて行く。 ゆらゆら、湖面で揺れる船を見た。舟遊びはいいモノだとベルカは思う。 静かな湖面に一人浮かび、思いを馳せるのも……なんて思いながら覗いた水面が、揺らぐ。 ぼんやりと、輪郭を得始めたもの。見たくないものが見える事もある、と聞いていたけれど。 見えたのは、白。ふわふわしている。そして、丸くて光るもの。 ああ、これは。 「ごはんだー!! はっ 横にはお味噌汁も!!」 此れが今自分の見たいものだったのか。そう言えば、お腹も鳴っているし。 そんな事を考えている目の前で、ご飯は静かに鎮座していた。嗚呼幻だなんて信じられないリアリティ。 もしかしたら、飛び込めば本当に食べられるのかもしれない。けれど、此処遊泳禁止って言ってたし。 それに。 「これでは童話の犬そのものだ!」 むぐぐ、と必死に堪える。食べたいけど。此処で飛び込むのではなく、戻ってから。 必死に葛藤したベルカが、飛び込まなかったか如何かは本人だけが知っている。 誘った響希と並んで、水際に。不思議な感情を呼ぶ夜の湖を見つめて、紅麗は少し不安そうに響希を見下ろした。 「……寒くない? ……上着みたいの持ってくればよかったな……」 失敗した、と言いたげに頭を掻く姿に、響希が少しだけ笑う。 なるべく風から庇おうと動いている事も分かるのだろうか、表情を緩めて、大丈夫だと首を振った。 「寒かったら言うわ、ありがとう」 水際に腰を下ろした。少しだけ沈黙が落ちて。紅麗はそっと、隣り合わせる予見者の苦労を思う。 きっと、大変な仕事なのだろう。なのに、こうして自分の相手をしてくれている、と思えば。 「響希さんもお疲れ様……あと、いつも有難う……」 そのまま出てしまった言葉にはっとして、慌てて顔を隠す様に俯いた。 驚いた様に、赤銅の瞳が此方を見ているのが気配で分かる。微かに、笑う声がした。 「馬鹿ね、……嫌だったら来ないし、あたしも話せて嬉しいわ」 何時も有難う。穏やかに笑って、そろそろ戻ろうと立ち上がる彼女に続いた。水の跳ねる音に誘われるまま水面を見て。 ふわり、と、形を結んだ、幸せそうな家族の顔に、思わず息が詰まった。 もう二度と、会うことも叶わない姿。吐き出した呼気が震えた。涙が滲んで、伝い落ちる。 もしかしたら、隣の響希はそれに気付いたのだろうか、慌てて其方を見遣れば、その視線は既に前を見ていて。 けれど、そっと伸びた手が、背中を撫でる。 言葉は無かった。夜の風は冷たくて、少しだけ濡れた頬がちくりと、痛んだ。 ● ゆっくりと。岸から随分離れていたボートが、動きを止める。 後は流れに任せるまま。オールを置いた快に気付いて、レナーテはゆっくりと視線を景色から外した。 「ラ・ル・カーナの決戦、お疲れ様。お互い、無事で何より、かな」 「ええ、お疲れ様。そうねえ、何より」 ヘッドフォンはまた無くなってしまったけれど、なんて言葉には、半ば諦めたように笑って。 レナーテは少しだけ、視線を下げた。 力の足りなさを思い知らされる部分もあった。思う所は幾つもあって。けれど今は、こうして生きている事を喜ぶべきなのだろうか。 音が消える。水の跳ねる音さえ微かで。あるのは月明かりを湛えた、蒼い水面。 「静かだね。俺達二人しか、居ないみたいに」 「……そうね」 言葉が続かないのは、二人で居る喜びからなのだろうか。 それとも、この空気がそうさせるのか。まるで音を拒む様に。ただ只管に其処にある静寂。 通り抜ける冷たい風に、快の手が伸びる。そっと、自分より随分小さな身体を抱き寄せた。 レナーテの瞼が下りる。ゆったりと。感じる温もりは、自分だけのものではなくて。 少しだけ自分より温かい気のするそれに、身を委ねた。その温度を、存在を感じているだけで、また頑張ろう、と思えるのだから不思議だ。 揺れる水面を、2人は見ない。幻影なんて見ても、仕方が無いのだ。今此処にある現実が全てで。 それがとても嬉しいのなら、もうそれだけで十分で。 そして、こんなにも幸福であるのなら。水面が映すのはきっと、自分達そのままの姿だ。 望んだのは共に歩む未来で。それを得た今は、まさしくその一頁。 身を寄せ合ってみる景色は何時もよりずっと、美しく見えた。 ゆらゆらと、揺れる感覚は随分と馴染みのないもので。少し不安を覚えながらも、たまには悪くないと龍治は身を任せる。 彼の目の前、少しだけ機嫌が悪い木蓮は膝を抱えたまま、視線を上げた。 「……あの時危険な賭けをしたろ」 命と射手の誇りを賭けて。撃ち合った記憶は未だ新しい。満足出来たなら良いけれど、木蓮にとってはとても、怖い出来事だった。 手を伸ばして、抱き締める。確りと受け止めた龍治は、すまなかった、と囁いて。 「しかし、たとえお前に止められたとしても俺は勝負に応じていただろう」 事実を告げる。それは、間違いなかった。龍治から見ても素晴らしい狙撃手であった女の、最期の相手に選ばれたのは光栄な事だったのだ。 同じ狙撃手として。応じて良かったと、今でも思っている。 その答えは、分かっていた。けれどどうしても釈然としなくて、木蓮は水面に揺れる二つの影に小石を投げ込む。 嫌だった。二つの影は自分と彼の筈なのに。そうでないように思えてしまうのは何故だろうか。 「……不安だったんだ」 零れる言葉。龍治は、彼女と戦友である未来もあっただろうにと、思ったのかもしれないけれど。 彼女は違った。もし。もしも自分より先に、彼女と彼が出会っていたなら。 「……今手元にあるもの全部あいつのものだったんじゃないかと思うと、居ても立ってもいられなくて」 それが怖かった。手が震える。酷く不安げな表情を見下ろして、龍治は小さく、吐息を漏らした。 「確かに、生きていれば戦友や好敵手となり得たかも知れない」 死を惜しむ気持ちもあった。けれど、其処に恋愛感情などは無くて。 そうであるなら、もうありえない未来なのだ。彼女は居らず、自分の心は常に木蓮にある。 「俺が愛しているのはお前だけだ。……それだけでは足らんのか?」 問いかけに、胸が詰まった。ぎゅう、と抱き締める腕に力を込める。 もっと、強くなろうと思った。彼と共に戦えるだけの、女になろうと思った。 「……未熟でごめんな。……俺様も愛してる」 寄り添う。大きな手が背を撫でた。嗚呼やっぱり。この場所だけはどの、どんな未来でも他人に渡せない。 大きくてふわふわのブランケットの中に、2人。水筒には暖かい番茶を入れて。 もういっそ、2人でひとつのカップを使うのも悪くは無いんじゃないか。そんな囁きに、そうね、と笑う。 フツとあひるは、楽しげに湖の真ん中まで漕ぎ出でていた。 2人一緒に。心を温める何かを見られたら、と思っていたけれど。想像以上に、世界は美しかった。 ふわり、ふわりと。蛍にも似た淡い灯りが水面を、空を満たしている。 映り込んだ星屑や月明かりも綺麗だけれど、フツにとってはこの優しい灯りは腕の中の少女の心の様で。 彼女が自分を思ってくれているからこその、景色なのだろう、と思った。 嗚呼、現実じゃないみたいね。素直に感嘆の吐息を漏らすあひるが、フツにはどうしようもなく愛おしい。 言葉が途切れる。ブランケットを羽織り直せば、不意に。温かな手が、フツのそれを包み込んでいた。 「フツ、最近お怪我が多いから……その、少しでも癒されてほしくって……」 ぽつり、ぽつりと。紡がれる声に滲むのは不安と心配。常に激戦に身を置き続ける彼の為に、自分に出来る事は何か。 何時も共にある事が叶わないと知っているあひるは、けれどそっと視線を上げる。 「……こうして体を休める時は、側に居させてね」 控えめに。けれど手を包む力が強くなった事に気付いて、フツは表情を緩めた。 肩に頭を乗せて、頬を寄せる。柔らかな髪が首筋を擽るのを感じれば、自然と緩む身体に笑みが漏れる。 「ありがとな、あひる。大丈夫。すげえ癒されてるぜ」 例えばこうして抱き締めた時。手を繋いだ時。自然と湧き上がるこの優しい気持ちを、彼女は知っているだろうか。 依頼や、大きな戦いの合間。必ず共に過ごしてくれる彼女との時間が有るからこそ、フツは戦える。 「一緒にいられない時でも、オレを一番癒してくれるのはあひるだよ」 優しい声。嗚呼、幸せだと思った。 共にある事が。手を、繋げる事が。そして、こうしている事で相手も幸せを感じているのなら、それさえも。 きらめきは消えない。結んだ指先は、解ける気配を見せなかった。 たった一人、誰も居ないところまで漕ぎ出して。 感じた肌寒さに、お酒くらいは持って来るべきだったか、と姓は身震いした。 遠くで声が聞こえる。それくらいが、丁度良かった。 灯りは消して、船底に身を横たえる。水の揺らぎは優しくて、見上げた星空は、本当に零れてきそうだった。 一度だけ覗いてみた水面は、真っ黒で。映ったのは自分の顔だけだった。 嗚呼。自分は本当に空っぽなのだ、と。心の底から思い知った。何も無いから、映らない。 けれどもしかしたら、自分が映っただけでもましだったのだろうか。 存在はしていた。自分が映ったように。夜空を彩る煌きが、今も其処に残っているとは限らないけれどかつては確かに、其処にあったのと同じ様に。 気付けば、遠かった筈の人の声も消えていた。起き上がれば、白み始める空と、遠い岸。 此処は何処だろう、何て思って。けれどそれももう如何でも良かった。流されて遭難したのなら、その内誰かが気付くだろうから。 夜が明けていく。光は目に眩しかった。 夜だけの幻は、朝焼けの中に溶ける様に消えていく。 残ったのは、変わらず蒼い、水面だけだった。 |
■シナリオ結果■ | |||
|
|||
■あとがき■ | |||
|