● 投げられた賽も、零した水も、全て元には戻らない。 あの日。世界を睥睨した眼球は、不完全になりつつあった完全世界を『完全に』狂わせてしまった。 胸を悪くする奇妙な空。母なる世界樹が抱える水源は枯れ、憤怒の荒野は、罅割れた。 蠢く脅威はその脅威を増しながら増え続け。狂気を帯びた母に引き摺られる様に、バイデンもまた、その理性を失い化け物へと成り下がっていく。 寛容なるフュリエでさえも、何時までその理性と種を保てるかは分からない。例え保ったとしても、滅亡は、避けられないのだ。 造物主であり、完全世界そのものである世界樹の狂気が収まらぬ限り、狂った世界の滅びは止まらない。 救われない。滅び行く世界。狂い狂って崩壊する。それを、止め得るたった一つの可能性は、ボトムチャンネルに座す箱舟の下に存在していた。 ――『忘却の石』 かねてより研究を進めていたそれは、神秘存在の持つ構成を『リセット』する為のもの。 その『リセット』をより高めれば如何なるだろうか。そして、フュリエの主であり、世界樹と唯一共鳴可能なシェルンが、それを使ったら? それは可能性でしかない。狂いゆく存在の構成要素の中から、かの巨人の残滓のみを、打ち消せるなんて。 試す事も出来ない策を打つ前に、逃げる事だって出来るのだ。崩壊する完全世界から離れる、事だって。 けれど。聡明である筈の作戦司令は、その選択肢を排除した。 かの巨人への、苛烈過ぎる感情。作戦司令――と木村沙織が内に秘める感情を思えば、それも必然。 かくて。アークは、苦渋の決断を下したフュリエと共に母たる『世界樹エクスィス』を目指す。 罅割れた荒野。満ち満ちていく脅威。そして、滅亡への道を転がり落ちる事も厭わずに、『世界史上最大の敵』にその瞳を滾らせる、僅かなバイデン。 その全てを、押し退け、道を切り開き。 完全世界の救い手は只管に、狂気の源を目指していた。 ● ぶじゅり、うじゅり。 粘着質な水音が、只管に前進していた。迫ってくる。躊躇いも無く。異臭と嫌な音を立てながら。 「ひっ、……や、やああああ助けて、助け、」 ちゅぷり、小さな音を立てて1人のフュリエの足が、濁った液体へと沈む。 それは、一瞬だった。 飲み込まれる。呼吸を塞ぐようになだれ込む粘液と、一気にその皮膚を焼き溶かす、酸のにおい。 否。その臭いを感じる暇の無かったのだろう。悲鳴さえ最後まで吐き出せず。『それ』の一部になった仲間に、残ったフュリエの顔が引き攣る。 踵を返した。 少しでも、リベリスタの力になろうと思って外に出て来たけれど。この脅威に、自分達はとても勝てない。 ならば。今出来るのは、逃げる事だ。少しでも早く。この脅威を伝える事だ。 己と共にある翼ある友人の力を借りて。全力の火炎を叩き付ける。動きは鈍っただろうか。そんな事さえ気にして入られない。 濁った粘液の塊。だらしなく垂れた幾つもの触手が、弄ぶ様に伸びてくる。 嗚呼。不透明なそれの向こうに見えた紅は、憤怒の隣人だったものだろうか。 悼む暇も、悔やむ暇も無かった。仲間の命が潰えようと。『勇気』を得たフュリエは、只管に、走っていた。 ● 「……緊急事態です」 肩口を押さえて。『常闇の端倪』竜牙 狩生 (nBNE000016)は一言、ラ・ル・カーナ橋頭堡のリベリスタへ告げた。 「狂った変異体が、世界樹の程近い位置に現れました。それも、とりわけ危険なものが」 淡々と。告げられた事実に顔が引き攣る。すぐにでも出なくては、と逸る仲間を制して。 青年は細く、溜息をついた。 「まずは説明を。……粘液の固まり、とでも言えば良いのでしょうか。全てを飲み込むモノです。 この世界の物に限りますが。飲み込み、溶かし、自分のものにする。私に危機を伝えたフュリエの方は、そう言っています。 彼女の怪我は酷く、情報は少ない。……しかし、その情報だけでも、危険なのです」 如何言う事だ、と尋ねる声に、怜悧な面差しが微かに、歪む。 「……我々の為に、と警戒を行っていた彼女達、総勢10名はそれに出会いました。そして、此処に帰り着くまでに、たった一人になっています。 それは、一人ずつ、飲み込んでいったそうです。あっと言う間に飲み込んで、溶かし尽くしたと。恐らくバイデンも取り込んでいる、とも仰っていました。 そして。……それは、取り込んだ物の力を、使って見せるのだ、と」 フュリエを飲み込んだのなら、翼ある友人の力を得て行使する、魔術を。 バイデンを飲み込んだのなら、その驚異的な膂力と、再生力を。全て真似して見せるのだ、と。青年は告げる。 「私は偶然、逃げ延びた彼女を保護する事が出来ました。……ソレは追って来ていた。交戦し、逃げる事は出来ましたが……この様です。 本能でしょうか。アレは、我々が『強敵』であり歓喜すべき馳走であると知っています。だからこそ、捕食の為に『進化』したのです」 押さえる肩を離せば、焼け爛れた跡。 知能には欠けるのだが、と前置いて。青年は、眼鏡を上げる。 「……飲み込んで数を減らせないのなら、数で対抗すればいい、と言う事なのでしょうね。アレは、既に飲み込んだフュリエやバイデンを、己の粘液で『再現』したのです。 全く同じ技を持つものを幾つも生み出して、アレは待っています。我々を捕食する、その機会を」 其処まで告げて。厳しい表情を崩さなかった青年は不意に、その口角を上げる。 「戦略を練るのならば、相手を知り……何より、自分達を知らねばならない。 その上で、自分達の持ち得る利点を最大限生かす一手を打てばいいだけ。……我々が構築したこの場に誘い込めば、勝率は格段に跳ね上がる。 だからこそ。……皆さんには、『囮』になって貰わねばなりません。私とフュリエの方が逃げおおせた後、アレは何故か世界樹へ戻り、動きを止めています。 囮、よりは餌、と言うべきですね。出来る限り、世界樹から引き離して潰して下さい。シェルンさん達の道行きの妨げにならぬ様に。私も全霊を以って尽力する事をを約束しましょう」 決して容易い事ではない。命を賭さねばならぬ、役目だ。 男が踵を返す。その瞳が見る先には恐らく、霞んで見えぬ、醜悪な粘液。 「私は、案外と負けず嫌いでして。――どちらが捕食者か、思い知らせてやるべきでしょう?」 如何か、ご協力を。深々と一礼して。準備を整えるべく、青年はその姿を消した。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:麻子 | ||||
■難易度:HARD | ■ ノーマルシナリオ EXタイプ | |||
■参加人数制限: 10人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2012年10月13日(土)00:07 |
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■メイン参加者 10人■ | |||||
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● 胸を占めるのは、憎悪にも似た怒りだった。 『アウィスラパクス』天城・櫻霞(BNE000469)の握る銃が軋む。何が変異体だ。何が、飲み込む者だ。 ご大層な名前のそれなんて如何でも良い。元が何であるか何て尚の事。 倒すべき対象が其処に居る。それだけが必要な事実で、そうであるなら排除するまでの事。 そう。そんなの如何でも良いのだ。求めるのはこの先。色違いの瞳が冷ややかに燃える。 「貴様如きに割いている時間は無いんだよ……!」 先に待つ、世界そのもの。あの憤怒の巨人と同じ化物こそ目指す場所。 宿る感情は炎の如く苛烈。冷静に、しかし射殺しそうな視線を彼方に向けて動きを待つ彼の横では、『てるてる坊主』焦燥院 フツ(BNE001054)が目指すべき場所の再確認を行っていた。 何時だって冷静に。歳不相応な落ち着きは、戦場では頼もしい武器となり得る。 『常闇の端倪』竜牙 狩生 (nBNE000016)に視線をやれば、相違無いと端的に返る声。視線を戻した。 先遣隊とも言うべき彼ら9人の役目は、荒れ果てた大地を少しでも安全に駆け抜けるルートを探る事。 少しでも間違えば、危険を犯す囮の生死に関わるそれに、自然と緊張が高まっていく。 「……なにこの粘液塗れになりそうな敵」 お兄ちゃんの持ってそうなゲーム、なんて。冗談になるのかちょっと不安な一言を漏らした『猟奇的な妹』結城・ハマリエル・虎美(BNE002216)の表情も言葉に反して硬い。 役目は単純。撃って撃って撃ちまくる。頑張れよ、なんて声が聞こえた気がする。流石ブラコン。ブレインインラヴァーまでお兄ちゃん仕様です。 「あ、家に帰ったらほんとに持ってるかチェックしないとね、お兄ちゃん?」 もしかすると、今此処に居ない兄にとっては妹の方が敵より恐ろしかったりする、のかもしれない。 最終確認。齟齬を減らす為ひとつずつ確りと確認した『紅炎の瞳』飛鳥 零児(BNE003014)はふと、視線を彼方へ投げる。 悲しいことだ、と思った。何も遺す事叶わず消えてしまうだなんて。そんなのは、あんまりにも。 深緋が砂塵と共に舞う。出来る事は限られていた。綺麗なだけのヒーローにはなれない。だからせめて、その無念を晴らしたかった。 捕食、だなんて悪趣味な方法で全てを飲み込んだこれを、この世界から消し去ることで。 「……それが、俺に出来る事だ」 拳を握った。きしり、少しだけ冷たいそれが、音を立てる。 落ちる沈黙。誰もが緊張の面持ちで『時』を待つ中。 ざざっ、無機質な機械音が、その空気を割った。 時は少しだけ遡って。世界樹の目の前、蠢き続ける醜悪なるモノと相対していたのは、たった二人のリベリスタだった。 「空腹で悪いけど、少しあたしと遊びましょ?」 ひらり、ふわり。砂塵と舞うのは可憐なセーラードレス。白ではなく黒でもない。全ての境に立つ、儚くも底の知れない瞳が笑った。 最初はあまり乗り気ではなかった、と『蒙昧主義のケファ』エレオノーラ・カムィシンスキー(BNE002203)は思う。 自分の世界は、自分の手で護ろうという意志がなければ滅びるのが当然。決断も何も出来ないのなら、全てが壊れたって仕方が無い。 けれど今。フュリエはリベリスタを信じ、自分の意思で世界樹と世界を助けることを決断したのだ。 自己の決断とは、何時だって貴いもの。そういうのは、嫌いではなかった。 手を貸そう。大層な事なんてしているつもりはない。そう、これは何時もと同じ仕事だ。 そんな彼の隣。目に痛い程の白。戦羽織を纏う背は自然とぴんと張られて。 『禍を斬る剣の道』絢堂・霧香(BNE000618)は決意を固める様に深く、息を吸った。 全てを取り込み飲み込んで、模倣し再び産み落とすモノ。これを野放しにすれば、どれ程の被害が出るのか、何て想像もしたくなかった。 余りにおぞましい外見に、少しだけ足が竦んだ。けれど、退かない。 自分達がやらねばならないと、知っていた。戦わなくてはいけない。世界の為に。 恐れるな。負けるな。自分に強く、言い聞かせる。 「剣の道の下、禍を斬る……絢堂霧香、いざ、参る!」 間合いへ、踏み込んだ。無い筈の目が、此方を見ているのを嫌と言う程感じた。 蠢く醜悪。震えるそれは、恐怖しているのか。それとも、歓喜していたのだろうか。 巨体が動く。腐食の粘液を地面に塗りたくりながら。目の前の、か弱げな餌を全て喰らい付くさんと。 「――かかったわ」 一言。エレオノーラの声が、決死の逃避行の始まりを告げた。 ● 疾走する。只管に。足を止めたら終わりだと、本能が告げていた。 ぼとり、ぼとり。背後で聞こえる濡れた音。何をしているのかなんて、振り向かなくたって分かってしまう。 敵が、増えている。即座に飛んでくるフュリエと同じ魔術が、霧香の頬を裂いた。 止まれば醜悪な粘液に飲まれ、走っていても移動攻撃を繰り返す模倣体の攻撃が容赦なくその身を削る。 それでも、走るしかなかった。息が上がる。傷が痛む。でも、止まれない。 「エレオノーラさん、進路を少し右に変えてください」 そのまま行くと大きな地割れがある。端的に告げて。囮の前方を走る『fib or grief』坂本 ミカサ(BNE000314)は注意深く先を見据える。 乾いた風はやはり肌には馴染まず、ひりつく空気は好ましくなかった。そう。空気も、そもそも異世界自体も。 自分には馴染まないもので、興味も惹かれないもので。けれど、手を伸ばさない事で自分の世界が壊れるかもしれないと言うのなら。 光すら吸い込む黒が舞い上がる。選び取った答えの理由は、彼自身にも良く分かって居ないのかもしれなかった。 「もう少しのはずです、ご無理はなさらず!」 自身が齎した加護が少しでも、2人の支えになるように。祈るような気持ちで『子煩悩パパ』高木・京一(BNE003179)は走る。 厄介な敵だ、と思った。全てを、飲み込み食べつくさんとする貪欲さ。それが行き過ぎた果てには、この世界さえも飲み干してしまいそうで。 そんなものは、この世界には必要ないのだ。世界樹をあるべき姿に戻すのなら、排除が必須。 彼の武器は、癒しと護り。被った仮面を押さえた。微力だとしても。この力が、仲間の手助けとなる様に。 その彼の横、冷静に己の手番を、位置を、全体の状況を調整しながら走る『シャドーストライカー』レイチェル・ガーネット(BNE002439)は手早く遠距離攻撃を行っている敵に目星をつける。 不安の芽は早急に摘み取るべき。模倣体も、もっと言えば、この敵自身もだ。 死と隣り合わせの危険な鬼ごっこ。今も、飛び交う攻撃に鮮血が散るのが見えた。即座に齎す癒しの福音。 「……アレが世界樹の側で猛威を振るうなんて」 想像しただけでも恐ろしかった。なんとしても、此処で打ち滅ぼさねばならない。 乾いた風が吹き抜ける。先遣隊の更に先、只管に走っていた零児の手が上がる。恐らくこの辺りだ、と告げる声。 「その先は砂地です。……そこで片を付けましょう」 淡々と。告げる狩生の言葉通りに広がるのは流砂と荒野。リベリスタにとってはなんら影響の無い足場も、恐らく粘液にとっては非常にやりにくいだろう、と青年は告げた。 駆け込む。即座に配置を整えて。遅れて駆け込んで来る仲間を待ち受けた。 「っ……さあ、此処からが本番だよ!」 血塗れ。設定ラインぎりぎりまで削られた体力に、霧香は苦しげに眉を寄せて。けれど、その手は即座に剣を引き抜いた。 桜の紋が揺れる。隣には、同じく烟る刃を取り出したエレオノーラが並ぶ。 「ね、追いかけっこは得意だったでしょう?」 笑う。そんな彼らの労を労う様に。先陣を切ったのはレイチェルだった。 魔力を纏う二刀が煌く。呼び寄せるのは厳然たる神の閃光。魔を焼き払うそれが、雪崩れ込んできた全ての敵を飲み込んだ。 「一気に畳み掛けてください!」 深紫が一瞬だけちらついた。速度の生み出す幻影が力を持つ。出来る限り多く、補足した敵を切り裂いたミカサに続くように後衛から飛ぶのは虎美の放った鉛の豪雨。 模倣体にめり込む弾が、鈍い音を立てる。砂地に動きを阻害されるのだろうか、少し鈍い動きに目を細める。 「ありがとう、お兄ちゃん! さっさと片付けていくよ!」 己の背後。見えない兄の声に奮い立つ。少しでも早く、数を減らす事が急務だった。 敵は16。やはり移動の合間にも緩やかながら増えていたそれに、フツは動揺を見せなかった。この程度、想定内だ。 「その動き、縛らせてもらうぜ、っとな……!」 深緋の槍がくるりと回る。唱えた言葉が生む呪力。広がる結界が、反応を強烈に鈍化させる。模倣体の動きが明らかに鈍ったところに、飛び込んだのは『ならず』曳馬野・涼子(BNE003471)。 拳に握り込んだ単発銃。華奢な身体に溜め込んだ苛立ちが、殺意にも似たそれが荒れ狂う。手の届く限り。兎に角全てを殴って叩いて、そのまま壊してやりたかった。 「そんなかっこうで、うばった力で戦うことに、なんの意味がある」 言っても意味なんて無いのだけれど。激情のままに少女は言う。お前はなんなのだと。苛立ちは飲み込めない。形の無い相手だから、叩き壊す事も出来なくて。 でも、それでもぶっ壊してやりたかった。嗚呼、苛々する。水色の瞳に激情が揺らめく。 「有象無象が邪魔だ、諸共切り刻め!」 ふわり、広がる無数の気糸。執拗なまでに弱点を叩くそれが優先して狙うのは模倣体フュリエ。 粘液が崩れる。腐臭を漂わせるそれが、砂に混じっていく。遠距離主体の敵は、既にレイチェルが見抜き、全体に伝えてある。 邪魔なものは全て叩きのめす。夜鷹と白梟。二対の魔銃が鈍く煌く。そんな彼の視線の先、鈍いながらも動き出した粘液が、その牙を向いた。 広がる腐食の身体。全てを薙ぎ払う様に回転したそれが、リベリスタ全てを覆い、払わんとする。 凌いだのはエレオノーラと霧香、フツのみ。眩暈がした。蝕まれる。己が身を護る為の力が、腐食されていく。吐き気がした。 砂が血を吸って、赤黒く固まっていた。浅い呼吸。明らかに傷の多い囮も含めて。京一が呼び寄せたのは癒しの福音。 傷が癒えていく。徹底的な支援体制を固める彼の目の前で、模倣体が動き出す。 呼び寄せられた魔術が飛ぶ。狙う先には、虎美。防御を削られたその身にとっては、元がフュリエの一撃であっても相当な脅威。 血を吐き出した。続け様、飛んだ魔術に、数に劣るブロックをすり抜けた模倣バイデンの刃が叩き落される。 それは、余りに重い一撃だった。運命を削っても未だ足りない。視界が暗転する。兄の声さえも遠くなって、その身は力無く砂地に沈んだ。 脅威は未だ終らない。飛び交う魔術が、斬撃が、体力を削る。脆い防御を崩していく。 レイチェルの身に迫るバイデンが、大槌と思われるものを振り上げる。せめてと衝撃に供えて、けれど、襲ってこないそれに顔を上げた。 「……君が倒れれば、戦線は傾きかねません」 黒い背。血に濡れた白いシャツ。運命を差し出す代わりにその一撃を受け止めて、狩生は僅かにレイチェルを振り向く。 頼りにしています。一言だけ告げて、男は滴る血を拭い取る。 猛攻は、何とか凌いだ。直後。広がるのは戦場の空気をひり付かせるほどの闘気。 右目が燃え立つ。灯る紅のいろ。刃というには余りに肉厚で、重い鉄塊を振り上げる。 増殖する敵で一番大事なこと。それは、如何に早く殲滅するか、だ。だからこそ。此処は自分の出番だと零児は微かに笑う。 火力だけ。全てを圧倒する力だけを追い求めたが故の威力。再生する間なんて与えない。 力任せに叩き下ろした。柔らかな粘液に刃が沈む。そのまま、地面まで叩き付けた。 ぱくり、開いた穴から粘液が漏れる。その中に微かに見えた生き物の指、瞳、髪、そんなモノに、気分の悪さが加速した。 ● 既に、砂地は粘液と血液で固められつつあった。 吐きかけられた強烈な酸に、前衛の身体が蝕まれていく。状況判断は兎に角早く。 レイチェルの福音が、京一の齎す邪気全てを拒む神の光が、徹底的に仲間を癒していく。 この2人の尽力が無ければ、戦線は即座に崩壊していたのかもしれない。少し寒くなる背筋にフツは首を振る。 敵の減少は、一進一退だった。飛んでくる魔術が身を焼く。癒しても削れる、堂々巡り。 遂に、霧香の膝が折れた。美しい蒼銀は血を吸って、既に色さえ分からぬ白無垢へと張り付いていく。 立たなくちゃ、と思った。負けられないのだ。負けない。勝って、先に進まなくてはいけない。運命が燃えて行く、音がした。 力を込める。青い瞳は燃え立つようで。血に塗れた柄を握った。まだ、倒れられない。 「あたしはこの先に用があるの、此処で倒れてなんか居られない!」 その声は、自分を、仲間を奮い立たせる為に。横腹を貫かれたフツが、その声に肩を揺らす。 やらねばならない。囁く少女の声を聞いた。ねえほら、と。暗い底から手が伸びる。そんなものに、耳を貸す訳には行かなかった。 運命を燃やす。この身が纏うは衆生の誓い。それは、この世界に来たって同じなのだ。 そんな彼らと共に。前衛に立つエレオノーラは誰よりも攻撃に晒されていた。 軽やかに。スカート翻しかわす姿は妖精の如く。自ら敵の怒りを集め、それでも彼は余裕綽々と笑って見せるのだ。 「ほら、追いかけっこはまだ終わっていないのよ?」 捕まえて見せてと笑った。負った傷など些細な事だ。引き寄せ、かわし、更に集めて。後衛に手を触れさせない。 拳を握る。この上なく分かりやすく真っ直ぐに。振り被った拳に握り込んだ鈍器。粘液に穴を開けるほどの勢いで拳を叩き込んで、涼子は眉を寄せた。 「……くたばれ糞野郎」 目の前で嫌な音を立て、飲み込んだ欠片を吐き出すそれに腰が引けそうになった。でも、退かない。勇気なんて無いけど。 苛々するから殴るのだ。こいつにも。自分にも。嗚呼、さっさとくたばれば良い。こんな邪魔なものに煩わせられる暇は無いって言うのに。 そんな彼女と同じ、否、それより苛烈な感情を覗かせるの櫻霞の指先に、手に、漆黒が纏わりつく。 手を振るった。放たれるのは、生命を蝕む漆黒の魔力。 「獲物はアレだ、存分に蝕め」 蝕み、侵して、喰らい尽くせ。撃ち抜いた射線上。模倣体が、崩れ落ちていく。徹底的な殲滅作戦。 本体を叩く者は、当然重要だった。けれど、櫻霞の尽力が無ければ、リベリスタはとっくに数の暴力の中に沈んで居たかもしれないのだ。 「……では、ご協力致しましょう」 ふわり、と流れ込む力が磨耗していた精神力を癒していく。モノクルと眼鏡。レンズ越しに視線が合った。 戦線を支え抜く。言葉にしなくても伝わるそれは、リベリスタの総意だった。 それは、予感だった。 鋭敏な本能が囁く。何かが来ると。それを頭が理解する前に、ミカサは口を開いていた。 「……下がって!」 常にその挙動に注意を払い続けたからこそ。ミカサの本能は、その危険を感知したのだ。インバネスが翻る。目の前で大きく広がったそれが、誰かへと飛ぶのが見えた。 自らへと降り掛かる粘液。その危険にも、そして警告にも気付きながら、零児はあえて、それを避けなかった。 覆いかぶさられる。飲み込まれる酸の海。灼熱と間違う程の激痛に意識が飛んだ。力が抜ける。捕食者は嬉々として、全てを咀嚼せんと中心部を開いた。右腕が、飲み込まれかける。 直後。瞳が開く。運命を餌に燃える無限機関。今持てる全力を、右腕へ、そして、鉄塊へ込めた。 「生憎と俺の腕は生身じゃなく機械だしな」 ハイリスクハイリターン。まさに己の命を賭け金代わりに、零児はこのチャンスを掴み取ったのだ。 闘気が、爆発する。内側から、中心ともいうべき場所へ。デットオアアライブ。自身の生死すら別ちかねない程の必殺が、叩き込まれた。 粘液がのたうつ。怒り狂う。灼熱の酸がぶちまけられて、零児の身体が投げ出される。既に意識は飛んでいた。傷の深い彼を、ミカサが即座に後衛へと下げる。 まさに、チャンスだった。傷の深いソレは、自身の修復に追われ、新たな忌み子を生み出せない。 畳み掛けるなら此処しかなかった。判断は早かった。レイチェルの紡ぐ言葉が、厳然たる光を呼び寄せる。 「これは前哨戦に過ぎません。……だからこそ、完全に潰します」 焼き払う。化物は二人も要らない。焦がれるからこそ邪魔なもの。柘榴の瞳がすうと細まる。 目の前で、鮮やか過ぎる銀色が駆け抜けた。血に塗れた白無垢が宙で遊ぶ。幾重もの幻影が、撹乱し、幻惑し、神速の一撃を敵へと見舞う。 血の味がした。息が苦しくて、でもやはり、霧香は諦めない。その横では、鈍い紫に煌くミカサの爪が、模倣体の首を跳ねていた。 憎しみこそ全て。悲哀の先。得たものはなんだったのだろうか。またひとつ、粘液が崩れる。 しかし、そのまま大人しく倒れる敵ではない事は明白だった。足掻くように、結界から逃げおおせて。喰らい付かんとするそれから身を引いても、飲み込まれる右半身。 指先が、溶けるのを感じた。吐き気を催す激痛。意識が途切れたのを、無理矢理引き摺り戻す。 嗚呼本当に、変質すると言っても限度があるだろう、何て文句はこれに通じないのだろうが。 「最後まで立っていた方が勝ちならば、俺はそれを目指すだけだよ」 強引に引き抜いた。滴り落ちる血と、溶けて混ざる皮膚と服。痛みに微かに眉を寄せて、けれどその膝はぐらつきさえしない。 皆で生きて帰る為にも。最後まで立ち続けるのが、自分の役目だ。 ● 戦いの終わりが、少しずつ見え始めていた。 零児の一撃を受けて以降、目に見えて勢いの落ちた醜悪なる異形は、生存本能のままに蠢き始める。 やらねばやられる。食わねば食われる。牙を向いてしまった以上、倒す以外に生き残る道など無い。 逃げる、だなんてこの『餌』相手に到底不可能であったし、そもそもそれだけの知能はこれに残っていなかった。 だからこそ。死に物狂いで化物は牙を向く。生き残る為に。それは、リベリスタも同じだった。 飛んでくる魔術が、遂に回復を行い続ける京一の膝を追った。レイチェルと2人、生命線とも言うべき存在であった彼の身体が、血みどろの砂へと沈みかける。 けれど、彼は堪えた。運命が燃え立つ音がした。倒れられない。膝をつけない。自分が倒れればどうなるのかを、彼自身が一番良く知っているから。 「……必ず」 皆生きて戻りましょう。それは誓いにも似た言葉だった。回復支援を行う彼の、決意とも言うべきそれだった。 奮い立つ。先に進む為に。そして、戻る為に。力を取り戻した瞳が、もう幾度目かも知れぬ福音を呼び起こす。 長期戦において、後半何より響いてくるのはその精神力の磨耗だった。 それを支える為に。ブロックを行いながらもミカサは精神を同調させる。 「坂本君、次は其方をお願い致します」 自分は此方を。そう告げて、狩生もまた己が力を分け与えていく。二人がかり、攻勢と供給を見極め声をかわし。 心身ともに最も限界の近づく後半から、徹底的に行われる支援行動は、リベリスタの戦線を維持するのに大きな役割を果たしていた。 霧香の神速の幻影が、全てを切り裂く。与えるのは混乱。明らかに様子の可笑しくなった粘液に、続け様に刺しこまれるナイフ。 柄の小さな薔薇模様を握り込んで。淀み無く隙もない攻撃を見舞ったエレオノーラは、少しだけ冷ややかに微笑んで見せる。 「ま、友人に怪我させた君にはきっちり落とし前付けて貰いましょうか」 また遊びに行こう、と約束をした。その約束を違える事は、どんな理由があっても嫌だった。 だから。その原因を作りかねなかったこれには、きっちり責任を取って貰おうじゃないか。そんな声音に、狩生が微かに笑う。 フツの長槍が引かれる。込められるのは呪い。呪詛。全力で突き立てた。大量の粘液が、噴水の様に湧き上がった。 「……念仏でも唱えてやるぜ」 だから、さっさとあの世へ旅立て。呪いが広がった。呻く様に、慄く様に。大量の粘液が震える。零れる。 悪足掻きは終わらない。大きな口が向くのは、憎悪を募らせ続けたエレオノーラ。かわすには少し、時間が足りない。 覚悟を決めようとした。けれど、伸ばされた手がその身体を引き寄せる。 「……私も、友人を傷つけられるのは嫌なので」 喰らいたいなら腕のひとつ位くれてやる。冷ややかな微笑が見えた。狩生の手袋が、溶け崩れて皮膚と共に落ちる。 エレオノーラの前。その身を滑り込ませた状態で力を失う青年は、涼子が即座に捕まえ後ろへ放り投げる。 戻る精神力を気糸に変えて。一気に拡散させる。櫻霞の攻撃が、残った模倣体を、醜悪なる異形を、徹底的に叩きのめした。 「……逃がさない、ブチ抜いてやる」 何一つ逃がさない。徹底的に。あの巨人に属するものならば、ひとつ残らず消し飛ばす。 あと少し、と京一の呼び寄せた復員が響き渡る。傷を癒し、心を奮い立たせるそれに、自然と瞳が前を向いた。 閃光が、神速の幻影が、全てを切り裂いていく。粘液は、既に原型を留めていなかった。水の詰まった袋が端から端から避けて行く様に。 中身が流れ出していく。金の髪が、赤い指が、武器と思しき何かが、砂地を満たす。嗚呼、もう終わりだと誰もが思った。 拳を、全力で握る。涼子の足が地を蹴った。やっぱり、これが一番だ。全力で、身を投げ出すように。全体重を乗せて。 握り締めた拳を叩き付けた。ぶじゅり、完全に袋が潰れる湿った音。 始まりと同じ様に、終わりも呆気無かった。水が抜けるだけの哀れなそれに、知性も、感情も、既にもう何も無い。 血みどろの砂が、崩れ落ちた皮膚や服の残骸が、流れていく。流されていく。 濡れて湿って、原型を失った砂地の真ん中に、ゼラチンの塊の様になった悪夢が、残っていた。 ● 仲間を背負う。最初に出した位置で無事だった虎美のトラックへと、怪我の酷い仲間を乗せて。 リベリスタは、その先へ進む。 「……次も必ず、皆で戻りましょう」 そっと、囁かれた声。怪我こそ負ったものの、今、此処には最初と同じく全員が揃っている。京一はそれが何より、嬉しかった。 隣り合わせ。横たえた狩生の隣に座るミカサは静かに、覗う様にその表情を覗いた。 何時も通り。澄まして、大人びた表情はしかし、時折様子を見る様に友人に向けられていた。 約束をした。守れないのは嫌だった。それはどんな理由であっても。そう、例えば。もう二度と会う事が無くなる様な理由でも。 「……馬鹿ね」 呟いた。其処に込められたいろは、ミカサには読み取れなかった。 がたがたと車が揺れる。ナイフを仕舞って、レイチェルはひとつ、息をつく。 これで、世界樹への障害をひとつ、排除した。為すべき仕事を果たして、次は。 「……さあ、ここからが本番です」 世界を、命を、全てを賭けて凌ぎを削る、戦いが、待っている。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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