●序 東京都――帝都ホテル、最上階。 この広いラウンジに、今日招かれた客人は二人だけである。 一人はいつものスーツ姿で身を包み、やんわりとした微笑を浮かべる凪聖四郎(なぎ・せいしろう)。 もう一人は可愛らしいドレスを着て、常にニコニコとした笑みを崩さない『六道の兇姫』六道紫杏(りくどう・しあん)である。 彼女はうっとりとしたような瞳で、貸切のラウンジでディナーと共に東京の夜景と眺め、聖四郎との一時を楽しんでいた。 出された肉料理を丁寧な仕草で切り分け、口に運ぶ聖四郎。 「ところで、紫杏。研究は大分進んだかい?」 「えぇ勿論! それはもう順風満帆なのですわ。お聴きになって、『ダウン現象』の発生率も随分と下げられたし、安定しつつ強い個体が造れる様になって、それからそれから……」 彼女は嬉しそうに、常人が聞けばまるで外国語の様な専門用語を並べ立てながら聖四郎へと内容を説明する。 こうやって彼と会って話しできる機会が、それはもう楽しみで仕方がなかったのだろう。 特に最近、研究に明け暮れて彼女は息を吐く暇もなかった様子だったと聖四郎は聞いている。 その一つ一つに頷き、驚いた返答を返していた彼は、赤ワインを一口含ませると感心した様に言葉を紡いだ。 「そうなんだ。上手く言ってる様で何よりだよ」 ウェイターを無言で手を挙げて呼び止め、紫杏のグラスに新たなワインを注がせる。 「その件で俺からひとつ、紫杏に協力できそうな事があってね」 「あら、何かしら。アタクシにとっては、聖四郎さんという存在がただこの世界に在るだけで千人力ですのに」 彼女の素直な回答に彼は微笑したまま、ワイングラスを傾ける。 「とあるアザーバイドを召喚しようとしている組織を今俺が保護していてね。 機会を設けるから、一度そのアザーバイドを君の『キマイラ』の研究に使ってみてはどうだろう?」 「……!」 普通の女ならば、百万本の薔薇だとか奇麗な宝石のアクセサリーだとかの方が受けが良いのだろう。 だが紫杏にとってはそんな物よりもこの上なく喜ばしいプレゼントなのだ。 「良いのかしら。本当に下さるの?」 ちょっとだけ首を傾げ、聖四郎に尋ねる紫杏。 最近とかく逆凪の仕事で彼が奔走している事は、彼女も窺い知っている。 彼自身も常に兵隊を必要としているはずなのに。と、紫杏なりにずっと心配になっていたのだ。 聖四郎は「もちろん」と優しげに微笑したまま肯いた。 「ありがとうございますわ! 聖四郎さん、大好き♪」 彼の答えに、パアッと満面の笑みを浮かべて思わず立ち上がる紫杏。 その姿は普段の彼女からはとても想像がつかない、恋する少女そのもの。 ●承前 首都圏――某所。 闇の中に鎮座し、テーブルの向かい側に座った聖四郎と対話をしているローブ姿の魔術師達。 聖四郎の傍らには竜潜拓馬(りゅうせん・たくま)が無言で警護するように立ち、その後ろにはフィクサード達が控えている。 天羽(あまはね)、鷲尾(わしお)、牛王(ごおう)、獅子神(ししがみ)。何れも『ハーオス』の神木実花(かみき・みか)によって創られたビーストハーフ達だ。 ローブ姿の一人が、確認するように聖四郎へと尋ねる。 「それでは。其方がこの四人を引き取る代わりに、我らに召喚の新たな場を用意したと……そう申すか」 聖四郎は無言で頷き、更に話を進める。 「それだけではない。新たな可能性を示唆しに来た」 魔術師達は一応に視線を聖四郎へと向ける。 「此処にいる配下達の報告によれば、召喚した『混沌の使者』達を制御する術を貴公達は未だお持ちではないと見受けられる」 聖四郎の問いに対し、互いを見つめ小声でヒソヒソと対話を始める魔術師達。 片手で制したローブの一人が、大きく頷いて返答する。 「その通り。『混沌の王』率いる神々の従者達は、我々からすれば偉大な存在故な」 彼等の建前ではそうなのだろう。だが実質は白痴で精神を持たない存在であるが故に、単に支配しようとは考えなかったのだろう。そう聖四郎は推測している。 「もし『使者』を意のままに制御し、貴公達の意志を聞く存在へと変貌させる術があったとしたら?」 聖四郎の言葉に、驚きの表情を見せる『ハーオス』の魔術師達。 「私の知己に、その一助となる研究を進めている一派がいる。 彼等に招来した『使者』を渡せば、貴公達の忠実なる『駒』として生まれ変わらせる事ができよう」 その提案がなされた直後、一斉にローブ姿の者達が話し合いを始めた。 「素晴らしい。奴の言う事が本当ならば、我等の目的は成就したも同然……」 「神木実花が居ない今、新たな『駒』を作る術もない。それさえあれば……」 悠然とその様子を見つつ、聖四郎は静かに腕組みをして彼等の結論を待っている。 やがて奥の中央にいる首座のローブ姿の男が手を挙げて一行を制し、静かに立ち上がった。 「……よかろう。何れにしても『混沌』をこの地に呼び出すには違いない。 この一件は、グリゴリーに任せる。新たなる『使者』を召喚し、我等の新たなる『駒』を得よ」 ――帰りの車内。 拓馬は何故この様な取引を聖四郎がしたのか、ずっと疑問に感じていた。 元々『ハーオス』の様な狂信的な手合いは、彼の好みとしていないはずである。 天羽達を引き取るためとはいえ、些か自身の主義に反しているのではないか? そう思うのだ。 拓馬がその疑問を尋ねるよりも早く、聖四郎の口からその答えが述べられた。 「制御できない『混沌』を次々と召喚されてみろ。その都度無駄な破壊と死が四方に散蒔かれるだけだ。 ……ならばいっそ誰にでも制御できてしまった方が、此方としても有難い。そうは思わないか?」 敵を倒す事に躊躇いはない。いざとなれば破壊や死を相手にもたらす事も、自身の宿命であると既に受け入れている。 だが『混沌』が召喚される度に無駄に自身の配下に危機が及んだり、周囲に破壊や死が撒き散らされる事を聖四郎も良しとはしていない。 だが本家の命令で『ハーオス』を庇護している以上、彼の一存で連中を切り捨てる訳にもいかないのが現状だ。 彼は彼なりの目算があってこの取引を持ちかけていたのだと合点し、拓馬は満足した様に肯く。 車は、そのまま逆凪本家の自宅へと向かっている。 今や聖四郎は単なる逆凪分家を率いる一幹部ではない。 『逆凪の異端児』と呼ばれ、逆凪の№2の存在にまで名実共に登り詰めていたのだ。 ●依頼 集まったリベリスタに対し、『リンク・カレイド』真白イヴ(nBNE000001)は淡々と切り出す。 「『ハーオス』が再び動き出したの。六道紫杏の研究員達と一緒に儀式を執り行うみたい」 逆凪の凪聖四郎の仲介によって、彼等は新たなる『駒』の作成を六道と共に探る道を選んだのだ。 既に魔術師の一人であるグレゴリー=ドブジャンスキーが儀式の為に準備を進めているという。 「今回の目的も『混沌の使者』の招来の阻止。万が一、召喚に成功された場合は『使者』を倒して異界へ送り返す事」 ただ儀式の警護に当たるのは相当の強敵である為、くれぐれも慎重にとイヴは付け加える。 「敵は『使者』の捕獲もあるから、複数の『キマイラ』と研究員達を現地に用意しているの」 紫杏の一派は今までの事件の経緯で、従来のアザーバイド、ノーフェイス、エリューションのどのタイプにも属してない、言わば人為的な追加工程の上に成り立つ新たな生物を研究している。 今回の儀式が成功して六道が『使者』を確保した場合。『キマイラ』の力が単に強大になるだけでなく、混沌を撒き散らす魔術師達の駒として使われる事となるのだ。 それだけは、絶対に避けなくてはならない。 「今夜儀式する場所は若洲海浜公園。かなり厳しい戦いになるから、本当に気をつけて」 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:椿しいな | ||||
■難易度:HARD | ■ ノーマルシナリオ EXタイプ | |||
■参加人数制限: 10人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2012年09月13日(木)23:54 |
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■メイン参加者 10人■ | |||||
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● 東京・若洲海浜公園――商業施設を近くに持ち東京湾に面した人工島だ。日中であればバーベキューやキャンプを行う人々で賑わいを見せている。その中でも大きな風車が目印となる多目的広場は遊具広場が併設されている為に子連れ客が多く、常ならばレクリエーションを楽しむ親子の姿が見られた。 深夜、今この場所ではこの場所では子連れの姿も遊ぶ子供達もいない。闇にも溶け入りそうなローブを身にまとった男が『儀式』の為の準備を整えている。『ハーオス』の魔術師たるグレゴリー=ドフシャンスキー。此度の儀式を一任された男だ。彼は先の戦いで自身の呼びだした『混沌の使者』たるアザーバイドに殺されたイワノフ・フルシチェフとは違い、年若いロシア人の男だった。黒いローブをはためかせ男は自身の足元に描かれた魔法陣を見つめる。 「グレゴリー様、準備は」 「嗚呼、もう少しだ」 『六道の兇姫』六道紫杏の派遣した研究員はその言葉に頷く。この場に紫杏の研究員らがいる理由は只一つ、キマイラだ。グレゴリーの視線が六道のフィクサードらの背後へと及ぶ。其処に在る女の顔に彼は趣味が悪いと呟いた。確かに其処に在ったのは女の顔であった。但し、其の体は緑色の鱗に覆われている事を彼は知っている。晒された不揃いな鈎爪。すらりとした女の脚は鱗に覆われておらずまだ、女が『人だった頃』の姿を残していた。 「儀式に成功したならば本当に『使者』を『制御』出来るんだな」 「はい、紫杏様なら間違いなく」 貴方がご覧になっている『モノ』が彼女の成功の結果ですから、とフィクサードは彼らの背後に控えていた『バケモノ』を指す。生気のない女の顔。グレゴリーが視線を寄越していた彼女は元はハーオスのフィクサードとして数々の事件を起こしてきた神木実花その人である。死しても尚、こうして混沌へと関わるのは彼女の執着故かハーオスの魔術師のなれの果てか。何れにしても、見ていて気持ちの良いものではなかった。 「神木には貴方の儀式を邪魔にしに来るだろう『箱舟』の対応をさせます。それから、貴方の呼びだす『使者』へは別のキマイラが対応します」 一度失敗した女等、信頼はできないでしょうと六道のフィクサードの瞳は眼鏡のレンズの奥で細められた。 「クィーン・アラーニェにお任せを」 アラーニェ。其れは『神曲』の中の煉獄に登場する上半身が女性で下半身が蜘蛛の女。その名の通り仰向けに寝そべった女の下半身にはちぐはぐの六本の蜘蛛の足が生えていた。首がだらりと下げられ、窪んだ瞳孔がグレゴリーを見つめている。この蜘蛛が『使者』を捕獲する為の力を持っているのか。聊か不安ではあるがあの凪聖四郎が遺して行った物で在れば使わない訳にはいかないだろう。これは取引だ。凪聖四郎にも、ハーオスにも理となる取引である。 蜘蛛の足が何かに反応するように蠢いた。嫌な風が吹く。嗚呼、これはあの『箱舟』が此方に向かってくる予兆だろうか。魔法陣に立つ男のフードが揺れる。六道のフィクサードは唯、瞳を爛々と輝かせて自身らの研究の成果を見つめていた。彼らの背後でこの多目的広場を象徴する風車は鉄製の武骨な姿を闇夜に晒しているだけであった。 若洲海浜公園入り口に辿りついたリベリスタらには遠目からも風車の姿が確認できた。 あの風車の近くには忌々しい『使者』を呼び出す魔法陣と男が居るのだろうか。過去、一度は召喚を赦してしまった負の眷属を思い出し『祈りに応じるもの』アラストール・ロード・ナイトオブライエン(BNE000024)は唇を噛み締める。色違いの瞳は只、真っ直ぐに闇夜にぼんやりと浮き上がる白い武骨な風車を見つめていた。 「祈りこそが――」 常の言葉をアラストールは呟いた。整った顔には若干の憤りが浮かんでいる。呼び出そうとする混沌の使者。其れがどれほど危険なのかはイワノフ・フルシチェフの儀式に纏わる出来事で把握している。後にアラストールが相対した魔術師は自身の呼びだした混沌の使者に殺されてしまったと報告書等で聞き及んでいた。 「制御なんて出来るとは思いませんが……」 混沌など人力を上回るのが当たり前なのだ。這い寄る者がこの場に現れても困る。召喚を行いたいとする魔術師たちの事を想いながらもブロードソードを手に、アラストールはゆっくりと夜露にぬれた芝生を踏みしめた。 「あの時は赦しましたが、もう二度と」 「うん。絶対に、今度こそ……儀式の阻止をして見せる」 掌でひんやりとする刹華氷月は水晶の刃を月に煌めかせる。持主たる『微睡みの眠り姫』氷雨・那雪(BNE000463)の眠たげな瞳は冷たい夜の風の様に細められた。ぼんやりとした瞳は段々と冴え渡る。眠り姫が、目を醒ます様に。彼女は只、一人の女の事を想っていた。随分と前の事になる。那雪が関わったとある事件。エリューションに襲われる革醒者を助けてくれと言うアークに良く流れ込む依頼の中の一つ。恋占いを生業とし、エリューションを作り出していた女が居た。フォーチュナが見た情報の中に、その彼女が此度の戦いに紛れてると知った。 「……気にくわない」 死にゆく女の豊満な胸を飾っていたアーティファクト。黒い鎖を濁流の様に吐きだしてリベリスタと渡り合ったフィクサード。キマイラになった神木実花の事を想うと那雪の心はまるで彼女の武器の様にひんやりと冷たくなっていくのだった。 気にくわない、何よりも生前部下だった女をキマイラとし、手駒として使う様子が本当に気にくわない。 噛み締めた唇。ぽん、と彼女の肩を叩き『紅炎の瞳』飛鳥 零児(BNE003014)は燃え上る様な怒りを湛えた黒い瞳でじっと風車を見据えた。 「最近、嫌なことばかりだ」 「……そう、ね」 零児の言葉に那雪は頷く。嗚呼、誰だって思う。キマイラの存在も、暗躍するハーオスも。嫌なことばかりだと。ただ、零児が一番不愉快であったのはそれを止められない自分の未熟さ。声を掛け、共闘した凪聖四郎の配下である男の顔を思い浮かべる。あの時、借りを返したと言った男ならこの時どうするのだろうか。真紅のコートが風に揺れる。 リベリスタ達は多目的広場に踏み入れた。魔法陣の上に立つ男がローブを揺らして、振り返った。 ● 仲間達の陰に隠れながら『小さな侵食者』リル・リトル・リトル(BNE001146)は紺色の瞳をキマイラの操縦者たる六道のフィクサードへと向けた。元フィクサードである彼の指先でLoDが揺れる。全てをスキャンする事など出来ない。時間は限られている。目を凝らす。狙いを定めるのは六道のフィクサードであるホーリーメイガスの女であった。 「混沌の使者だかなんだか知らないッスけど、傍迷惑ッスねぇ」 「本当に、グレゴリー君ったら背伸びしちゃって♪」 くすくすと笑みを漏らす『ヴァイオレット・クラウン』烏頭森・ハガル・エーデルワイス(BNE002939)は運命を引き寄せる様に誇りを胸に抱く。 「ハーオスと逆凪……」 その二つの繋がりから、新たに生み出されるのはキマイラ。危険度の高いその生命体の素体を生み出そうとする召喚。『鋼鉄の戦巫女』村上 真琴(BNE002654)はその召喚阻止に一度関わった事がある。其れと同じくして時は違えど混沌を呼び出す行為に『リップ・ヴァン・ウィンクル』天船 ルカ(BNE002998)も一度携わった事がある。その際抑えた召喚。あの時に『混沌の使者』がどれほど危険なものであるかはその身が知っていた。 「混沌のキマイラ化、か」 唯でさえ赦さざる行為だと言うのに、其処に加えて六道の『新兵器』――凪聖四郎の恋人、六道紫杏が没頭する『研究』キマイラにされてしまっては手の着けようがない。防がなければならないと彼はグリモアールを抱える。一度目にした狂人集団。混沌にとりつかれる様に、唯、その存在をこの場に呼び出そうとする『気狂い』たちに『気狂い』を持たせる訳にはいかない。 土を踏みしめる。ルカは前を向く。嗚呼、何としてでも阻止しなければ。 静まり返る広場に嫌な風が吹く。其れが、グレゴリーらからすれば忌むべき存在の到着を告げていた。 「さあ、儀式を――」 「おっと、そうは行かないよね☆ 毎度お馴染みアークです☆」 素晴らしい集中領域に達し、脳の伝達が素早くなる。グレゴリーの声を遮る様に戦場に飛び込んだ『ハッピーエンド』鴉魔・終(BNE002283)が浮かべたのは嘲笑。グレゴリーを庇う様に戦場の前線に立っていたキマイラ――神木実花に接近しながらも彼の目はその背中の向こう、グレゴリーへと向いている。 「さあ、グレゴリーさんは実花さんと再会したお気持ちをどうぞ☆」 美人さんだよね、なんて未だ生前の美しさを残した白い頬を眺めながら終は言う。その白い首から下が足の付け根に至るまで鱗に覆われていたとしても。グレゴリーの目は一度神木へと動く。だが、彼は何も言わない。其れに対しては何も想わないとでも表すかのように。 神木に接近する終の後ろでリルは見切ったとでも笑いホーリーメイガスへと踊る様に爪を振るう。急接近するリルへとソードミラージュがその剣戟を繰り出す。闇を照らす様な光の飛沫は芸術的なまでにリルを捕えようと突き出されるが――遅い。交わした彼の背後から『終極粉砕機構』富永・喜平(BNE000939)が顔をのぞかせる。眼帯の奥で紫苑の瞳が歪んだ。 ソードミラージュの隣で剣を構える鈍足のデュランダルへと彼の仲間が放ったばかりの攻撃を繰り出す。打撃系散弾銃「SUICIDAL/echo」から放たれる攻撃にデュランダルは一歩後ずさる。小細工等要らなかった。全力で散弾銃を叩きつける。 「ねえ、強いものを呼びだしたら、思い通りに行かなくて大変なことになるお話しって読んだことない?」 彼らの背後、攻撃の届かぬ位置に居る『おじさま好きな少女』アリステア・ショーゼット(BNE000313)は淡い紫の瞳を細める。山の様に呼んできた物語の一幕が彼女の目の前で行われるのだ。握りしめた魔力杖。周囲の魔力を取りこみながらも少女の瞳は奥の魔術師へと向いていた。幾ら『おじ様』と言えど彼とお茶をする気にはなれない。 彼女らの目の前に急接近する蜘蛛にエーデルワイスは舌打ちをする。中衛に居る彼女であれど敵の多い今回では前線ががら空きである。糸を吐きだす蜘蛛へと神速の早撃ちが繰り出される、不揃いな脚が戸惑う様に踊った。 「ほら! 十字を切って祈りを捧ぐね、今日死に逝く貴方達へ!」 エーデルワイスのフィンガーバレッドに糸が絡む。素手で千切りながらも彼女は目の前の気色悪い蜘蛛を睨みつけた。キマイラの強さは他の報告書でも触れた事があった。クィーン・アラーニェは『対・混沌』用だけあってその強さも他の物とは桁違いなのだろう。彼女の目の前に広がる卵は数個は罅割れている。だが、それでも足りては居なかった。周囲を確認しながらも全員へと翼を与えたルカはあまりにも早い混戦の状況に戸惑いが隠せないで居る。じり、と後退する。目の前の蜘蛛の動きがあまりにも速かったのだ。 「絶対に一つも漏らさないッ!」 迫りくる蜘蛛の口を的確に撃つ。那雪の全身から伸びあがる気糸がアラーニェとその卵を執拗に狙い撃つ。空しいかな、蜘蛛の動きは変わらない。耐性――強化されたキマイラの強さを此処で目の当たりにする事になる。エーデルワイスが撃ち漏らした卵を那雪が撃つ。ふと、彼女の視線が動く。ぞわりと背筋に伝った気配に那雪は 刹華氷月を構える。其れは彼女が気にかけていた女フィクサードの怨念を感じ取ったからだろうか、物言わぬ自我のないキマイラは終の前をすり抜けて真琴へと向かう。 「真琴さんッ!」 真琴の足がずり、と地面を擦った。味方全員へと与えた戦いへ赴く覚悟。極限まで高められたその意思。十字の力を与えながらも真琴は神木実花の攻撃下に晒されていた。左手が彼女のシールドに弾かれる。後ずさった真琴の左腕へと実花の右手が振り下ろされた。裂かれた肘から血が溢れる。黒い髪が揺れる。痛みに彼女の顔が顰められた。 「我が身は万民を護る盾、守ると成れば、必ず護る」 その信条の元、全身のエネルギーが防御に特化したアラストールはブロードソードを握りしめる。ホーリーメイガスの前に立ちふさがるデュランダルに対し全身の膂力を爆発させる。叩きつけた一撃にふら付く足。 肉体の限界を超え、真紅のコートをはためかせた零児は破滅的な破壊力を耐性を崩したデュランダルへと叩きつけた。裂帛の気合と共に爆発する全身の闘気。単純なるバカ力。攻撃に伴う火力がこの戦場では一番恐ろしく感じた。零児の目指す高み。火力を伴った重き一撃。其れを警戒してデュランダルを狙う彼の元へとカードの嵐がしの運命を選び取る。其れがナイトクリークであると気づいた時に、彼らの周囲にはタロットの死神が微笑んでいた。 ● アリステアの聖なる光が周囲を焼く。身を焼く様に蝕む痛みに顔をしかめながらもホーリーメイガスは歌う。 「喜平さん! ソイツッス! そのデュランダル!」 「神木を操ってるのはナイトクリークッ!」 キマイラの使い手を判断すべくリルはじっと観察していたのだ。同じく那雪も観察眼を使って仕草等で其れを判別していた。その声を聞いて、前衛に立っていた喜平は走り出す。グレゴリーの吐きだす濁流の様な鎖に苛まれても喜平は足を止めない。溺れやしない、彼には闘う理由があるからだ。その鎖を掻きわけて、彼はデュランダルへと光の飛沫を上げながら攻撃を繰り出す。 「――誰だって何だって理由があるから戦うんだ」 撃つ、討つ。繰り出す攻撃と共に彼はデュランダルを睨みつける。告げるはキマイラの事。彼も、六道のフィクサードも闘う理由が合ってここに居る。キマイラはどうなのか。嗚呼、言わなくたって分かる。自我もなく、ただ、六道のフィクサードらの言葉を聞いて全てを噛み砕く。何て哀しいものなのだろうか。 「元の在り方を歪められ何もないのに戦う、そんな喜劇、俺は、好きじゃないッ!」 踏み込む、夜を切り裂く様な光の飛沫。 青年の攻撃にデュランダルの体が揺らぐ。ホーリーメイガスが癒しの声を上げようとした所へリルが死の刻印を刻んだ。インヤンマスターの符術により多少なりとその体力を持たせているが、事実、狙われているホーリーメイガスとデュランダルはもう持たない。 「面倒事を増やされたらおちおち遊びにも行けないッス」 だから、防ぐ。アリステアへと向かう攻撃をリルは防ぐ。すばしっこく動き、踊る様に攻撃を加えて行く。帽子のリボンが彼の動きではためいた。 「――偉大だ何だのと言う割にソイツを思いのままの木偶に仕立てようなんてな」 どさり、とデュランダルがその身を伏せる。ソードミラージュが喜平へと突進していく。互角の素早さ。討ち合う。 武器がぎん、と音を立てて跳ね返った。 土を踏みしめて喜平は踏み込む。癒しを謳うホーリーメイガスのその身に繰り出す。芸術的なまでの動きに翻弄され、ホーリーメイガスは癒しを歌うのをやめた。 彼の目はグレゴリーを見つめる。『ハーオス』の中ではまだ年若い魔術師。偉大な者を冒涜する様な行いに彼は口元に笑みを湛えたまま、武器を振るった。 「流石は、斜陽の組織。矜持も敬意もあったもんじゃないな。まあ、復興出来ないのも当然の話しだな」 小馬鹿にするように笑った彼の身を焼く炎。地獄の業火が身を焦がす。其れが魔術師の男のプライドを痛く傷つけたのだろう。憤怒の表情を浮かべながら、笑う。 嗚呼、其れならばご覧入れようではないか、『偉大な者』を―― 静かに魔法陣の上に立つ。ハーオスの魔術師たる男は詠唱を始めた。リベリスタの表情に焦りが生まれる。 「――その百年の未練、砕いてやるよッ!」 喜平は奮闘する。打撃系散弾銃「SUICIDAL/echo」を向けるのはキマイラを操るナイトクリーク。だが、其れはソードミラージュに阻まれる。繰り出された連撃にその身が傷つけられていく。溢れる血が、決意を鈍らせる。 踏み出す事も出来ないまま、脚が、震える。 猛撃は続く。自身を強化する事に初期の手番を消費していた真琴は盾で身を守っていた。繰り出されるインヤンマスターの涙雨が、彼女の肩を切り裂く。夜の闇に降る、氷に蝕まれる仲間達をアリステアは歌いながら癒していく。だが、足りない。実花を狙った鉄槌は彼女に簡単に弾かれてしまう。 「死して尚もアークにこうやって関わり続ける……」 神木実花の事を思うと胸が痛んだ。真琴は眼を伏せる。彼女に落とす正義の鉄槌。何度となく避けられてしまう其れを当てなければ――黒い髪が夜の風に弄ばれた。 「今回で、けりをつけたいのです」 ねえ、神木さん、と口に出す。下す鉄槌を受けながらも自我のない実花は其の体から黒き鎖を濁流の様に吐きだした。蝕まれる。緑色の鱗で覆われた女の繰り出した攻撃にその身が蝕まれる。嗚呼、だけれど、彼女は其れに対する耐性があった。口元に笑みが浮かぶ、まだ、大丈夫だ、と。ノーガードだったナイトクリークが緩やかに笑みを浮かべた。吐き出される鎖にその身に幾ら効果を乗せられても彼女は屈しないはずだった。 ――蓄積するのだ。全て。癒す前に彼女の身を引き裂く様に重くのしかかる。紅き月が揺れている。仲間達の身を引き裂く様に昇る擬似的な紅い月。真琴は肩で息をした。嗚呼、なんてことだろうか。蓄積した其れが体力を奪っていく。運命を燃やして彼女は目の前の女へと鉄槌を落とした。 「私の安息は――」 まだ来ない、彼女の過去を黒く塗りつぶす存在を無くすまで、まだ、遠い。傷つきながら、黒い鎖に巻かれながら彼女は意識を手放す。 蜘蛛の糸が少女の体に絡みつく。ぐ、と糸に腕を引っ張られ、アリステアは顔を上げた。その糸に沿ってクィーン・アラーニェの子供達が向かってくる事に気づき、アリステアの目が見開かれる。 ひゅん、と糸を千切る弾丸があった。 「人間が好き? そんな健気な君には死をPresent!」 唇に浮かべた嘲笑。エーデルワイスは絶えず弾丸を放つ。蜘蛛の子供が埋まる前に素早く撃ち抜いていく。傷ついた彼女へとルカが癒しを与える。絶えず送られる癒しに、エーデルワイスは息を吐く。だが、避けきれぬ其れに足元がふら付いた。クィーン・アラーニェは強い。撃ち漏らした子供達がエーデルワイスの腕を噛む。走る毒の痛み。顔を顰め、其れに耐える。 「ッ、脳漿と腸をブチマケテくれたら嬉しい!」 さあ、根絶やしにしてあげる。繰り出す弾丸が抉る様に発射される。柔らかそうな女の肢体。抉る様にアラーニェの腹に落ちて行く弾丸。醜い動きで蜘蛛は口から血を吐いた。だらりと下がった首により女の黒眼がエーデルワイスとかち合う。唸り声を上げるアラーニェの喉元へと弾丸は繰り出された。 「醜い悲鳴を上げてね?」 本当はならばグレゴリーの咽喉を潰してやりたかった。詠唱なんて出来なくして、喉仏を壊して言葉にすらならない醜い悲鳴を上げてのた打ち回ればいい。 彼女に向けて糸が吐きだされる。エーデルワイスは糸に覆われる。絶えず彼女も傷を負っていた。癒し手が居たとしても回復は間に合わない。避けきれぬ其れ。子蜘蛛が餌だとエーデルワイスの腹を噛む。柔らかい彼女の腹から溢れだす鮮血すらも餌だと啜られる。 臓腑が抉られる感覚にエーデルワイスは唇を噛み締めて耐えた。撃ちだす弾丸で醜い捕食者を吹き飛ばす。 脂汗が流れる額。生み出される子供達に向けて一斉に打ち出した弾丸。届かせる。三下プレイはお手の物だ。其れは端役であるという事ではない、にんまりと唇を歪める。 ほら、のたうち回れ、此処で――! 緑の長い髪が揺れる。吐き出した弾丸で彼女はクィーン・アラーニェの腹を抉った。 ふらりと足元が揺らぐ。運命は幾度も燃やした。もう、持たない。三下は主役を奮い立たせる者だ。彼女が撃ちだした弾丸の痛みにアラーニェが自己回復する隙間、そのすきを狙って那雪は気糸を撃ちだした。 ● 「混沌の使者とか呼び出されたって面白くないッス!」 絶対に止める、とリルは背に得た翼のまま宙を舞う。踊る様にグレゴリーに接近し、彼へとLoDを振るった。Line of Dance――踊り子は一直線にグレゴリーに放つ。死の刻印。刻む其れに苦しみながらも魔術師は黒き鎖の濁流でリルの小さな身体を溺れさせる。 彼も元はフィクサード。私欲に溺れていた事だってある。赤茶色の短い髪が、揺れる。鼠の尻尾がぴん、と跳ねあがった。背筋に伝う嫌な気配。糸が、彼の脚へとまとわりついた。 「ッ、クィーン・アラーニェ……!」 這い寄る蠢く蜘蛛。急ぎ切り裂いた糸の端。子蜘蛛が其処で餌を求める様に口を開いていた。彼の身を狙うのはグレゴリーだけではない、こうして対面し、魔術師を傷つけて言っても絶えず他の攻撃がその身を襲う。氷の雨が、紅い月が、彼らの体力を奪う。唇を噛み締める。こんな所で、負けるわけには―― 嗚呼、けれどフィクサードをやめてリベリスタとなって出会った大切な人たちを守るために。彼らと笑いあって遊びに行くためには、倒れる訳にはいかない。 「面倒を増やさないでくださいッス!」 「面倒? 何を言うか、『使者』が居れば貴様がこうして戦う必要などなくなるのだ!」 その言葉は、彼らにとっての活動の理由なのだろうか。『ツングースカ・バタフライ』を起こした魔術結社。その出来事よりもはるかに小規模で在りながらも被害が出てしまう『面倒』はグレゴリーら『ハーオス』にとっては正義なのだ。人々の考えは反することだってある。理解できない、事だって。分かり合えないことだって多いのだ。 ――リベリスタと、フィクサード。 どちらも経験した事があったとしても、其れでもその中で派閥も多い。理解し合う事が出来ない人間だって居る。 人は、其れほど単純にはできていないのだ。 舞う様に、踊る様に死を刻むリルに『ハーオス』の魔術師は傷つく体を引き摺りながら、笑った。嗚呼、彼の流れる血が黒き鎖となって、リルを呑み込んでいく。 濁流に溺れる様に、息ができない。 「ッ――いい加減ムカついてるんだから!」 傷を負うアリステアの前にアラストールは立ちはだかる。隣で肩口を押さえながらも癒しを齎すルカも満身創痍だ。 「命を歪めて操るなんて許せないんだから!」 癒し手の少女は高位の存在へと呼びかける。癒しの力がリベリスタに行き渡る。癒し手の体力も全体攻撃で失われて行く。涙雨が、その身を削る。放たれる濁流にのまれない様にアラストールは二人の癒し手の前に立った。 「召喚を為しても、本当に扱えるというのですか」 ぎっと睨みつけるアラストールの瞳に六道のフィクサードは笑う。紫杏様なら、大丈夫だと。六道の兇姫の天才的な頭脳。テストケースとして使われるキマイラ達。アラストールはナイトクリークへとブロードソードを振るう。 終の攻撃を受けながらもキマイラとなった女はアラストールへとその鈎爪を振るう。 戦場は、困惑していた。揺れ動く、どちらともなく、結末が、見えない。 ルカ色違いの瞳が、細められる。 「もう二度と呼び出させる訳には、行きません」 癒しを、施す。体内で渦巻く魔力がつきる前に。幾度も幾度も癒す。ルカの体も傷を負っていた。運命だって投げ捨てた。決意はしている。何があったって召喚させる訳にはいかない、と。 庇い手を癒すルカへと襲いかかる黒い鎖。目を見開く。庇われるアリステアがルカさん、と呼んだ。 けらけらと笑う緑の女。全身から黒く渦巻く鎖がルカを締め付けて、溺れさせる。身体を苛む物が、重くのしかかる。癒しを謳う彼の機械化した右腕が伸ばされる。鎖を千切る様に。黒い髪が乱れる。唇を噛み締めて、彼は癒しを歌い続ける。 身体を撃つ雷に、女の不幸を表す様な黒き鎖に、翻弄される。膝をつく。視界がぼやけた。 「ッ、ルカさん!」 「――混沌を、キマイラ化させる訳には絶対に……絶対に、いきません!」 庇いきれない攻撃に、アラストールは生み出された鎖からアリステアを庇う。届かない護りの手。 「可哀想なキマイラさんを、もう生み出さないでぇぇっ!」 その声とともに少女が放つ聖なる光。蜘蛛がのたうち回る。グレゴリーの放つ雷が、彼女の身を撃った。目を見開く。少女は膝をつく。少しずつ、少しずつ削れていく体力の限界がもうそこにはあった。 「――ッ、わたしは、負けないんだから」 運命を燃やし、少女は歌う。か弱く見える少女の身は攻撃を避けきる事は出来ずとも、十分にダメージを緩和している。銀の髪が揺れる。真なる天使の歌は、戦場を潤して行く。だが、その声も枯れて行く。 庇いきれない攻撃を受けながら、減らされて行く自身の体力にアリステアは耐えていた。盾なるアラストールは懸命に癒し手を庇い続ける。護る事に対しては何処までも貪欲であった。 振るう剣が、キマイラへと突き刺さる。神木実花の眸と目が合う。唇を噛み締めて叩き込む。傷だらけの六道のフィクサード達を倒さんと、アラストールはアリステアを庇いながらも蒼と碧の瞳を細めた。膝をつきそうになる、絶対に――護り抜くと、そうきめていた。 悔しさが胸を過ぎった。歌う天使の声が、小さくなっていく。アラストールは踏み込む。目の前のフィクサードへと。傷だらけのソードミラージュの体へと全てを叩きこむ。その勢いのまま地に伏せる。庇い手の無くなった少女は其れでも独り歌い続ける。 闘う仲間達の為に。もう癒す力が尽きてきている事を分かっては居ても、最後まで。 「――おにぃちゃん、おねぇちゃん……」 仲間達を呼ぶ。薔薇の髪飾りが外れた。髪が、ほどける。肩口に掛った銀の髪を気にすることなく歌い続ける。尽きる、その体力に目を細め、じっと見据えたのはキマイラ。 嗚呼、前線のお兄ちゃんもお姉ちゃんも、痛い思いをして戦ってくれていた。 其れを癒す私が、倒れてしまったら―― 「キマイラ……実験のなれの果て、か」 那雪の目は哀しげな色を湛えた。明るい紫色の瞳に滲むのは、何か。首をだらりと下げちぐはぐの脚を動かしながら蜘蛛は糸を吐く。じっと見つめた蜘蛛の脚の付け根。放った気糸が脚に絡む。蜘蛛の脚が、一つ切って落とされた。声にならない叫び声が鼓膜を劈く。 「望んでその姿になった訳ではないのだろう?」 刹華氷月を構える。黒き天使の羽根が揺れた。唇に浮かべたのは嘲笑。嗚呼、自分ももう持たないだろう。霞む目で無理やりに焦点を合わせる。傷を負い、蠢く蜘蛛に向けて那雪は笑った。 「もう、終りにしよう」 少女はまるで蜘蛛の様に全身の気糸を張り巡らせた。クィーン・アラーニェの体を狙い撃つ。流れ弾の様に六道の研究者たちへと気糸は走る。運命を代償に捧げた、もう彼女に余力はない。視線が、神木実花へと送られる。初めて会ったのは冬の始まり、まだ寒い頃だっただろう。秋の終りに出逢った女の変わり果てた姿が、那雪の紫苑の瞳に反射する。 「全部、全部だ……ッ」 意識が、遠く遠くに手放される。神木の嘲る様な笑みが、あの劈く様な笑いが鼓膜に張りついて離れなかった。豊満な胸を飾ったアーティファクト。思えば彼女本人との関わりは短すぎた。 「全部、潰して見せる……」 遠くに行きかけた意識を、手繰り寄せた。 其れは糸の様に、細く頼りない意識だけれど。那雪は最後の一撃だと全身から気糸を発した。 生み出された子供も、卵も全て諸共。仲間を傷つけるものは許さないと。全て、全てを狙い撃つ。その行為を面倒だと面倒くさがりの天使は言わなかった。此れが、彼女の本質なのか。優しい夢ではない、過酷な現実に身を任せ、眠り姫は蜘蛛を狙い撃った。癒しきれない傷に蜘蛛はのたうち回る。糸を吐く事もなく、その痛みに不揃いな脚を振り回す。 手から転がり落ちた刹華氷月。ひび割れた眼鏡が広場の芝に落ちる。額を伝った血液に視界が赤く染まる気がした。 気糸は、全てを狙い撃つ。糸のように細い意識で。懸命に。 ――ぷつり。 意識の糸が切れた。少女の身が地に伏せる。ぐらつく視界で思う。 理不尽なまでに事件の当事者となってきた神木の事を。嗚呼、彼女ともう少し話ができて居れば彼女の事が理解できたのだろうか。 ● 「混沌の使者の招来はな……これまで、仲間が必死に阻止してきたんだ」 炎を宿す瞳。纏うコートがぼろぼろになっても、どれだけ傷だらけになっても、零児はその場に立っていた。 覚悟はしている、此処で命を投げ売る覚悟はある。激戦を得て青年は戸惑いをかなぐり捨てていた。正義になりたいわけではない。彼は運命に愛された分だけ運命を愛している、ただ其れだけだった。刀を振るう。グレゴリーは詠唱を続けている。ここで、自分が負けたら誰が混沌の使者の将来を阻止するのだろうか。 ――儀式は絶対に完成させない。 「最近、本当に嫌なことばかりなんだよ……」 ふらり、と彼は足を踏み出す。炎を宿したように赤い瞳が、猛る。 赤茶色の髪は零児の動きと共に揺れた。 踏み込むそのままに裂帛の気合とともに肉体全ての力をグレゴリーへとぶつける。黒いローブが揺れる。得た傷はもう癒し切れていない。しかし詠唱は止まらない。 「お前らの行いも、俺の不甲斐なさもッ!」 血を吐きながらも、這いずる様に青年は剣と思しき鉄塊を――全てを叩き潰すべく振るう。 全てをかけた破滅的な破壊力は、グレゴリーを巻き込みながらも地面にたたきつけられる。ぴしり、と魔法陣に罅が入った。グレゴリーは其れでも詠唱を続ける。現れる歪な扉。何時だったか先人が作り出したものと同じ其れ。 嗚呼、やはり失敗か――グレゴリーは薄らと笑みを浮かべる。 濁流の様に流れ出す鎖が、零児の腕を捉える。だが、彼は其れに屈しない。運命を愛していた。この運命を受け入れていた。折角受け入れた新しいものを、手放すわけにはいかなかった。仲間達が喰いとめて喰いとめて、懸命に闘ってきたソレを赦してしまっては自分を二度と好きになれなくなってしまう。 グレゴリーの魔術に苛まれながら零児は踏み込む。宿る炎がこれまでにない位に赤々と燃え上る。歯を食いしばる。 デッドオアアライブ。 裂帛の気合を全て乗せて、踏み込む。その先に居る魔術師へと。 雄叫びをあげる事はない、決意が胸を焦がす。彼の身から溢れだす鎖の濁流にすら押し負けないその破壊力が一気に叩きつけられた。 キマイラの傷の治りが遅い、と傷を負いながらもインヤンマスターは焦りの色を浮かべた。白衣が風に靡く。嫌な、風だ。 その運命を削り、その身を削り、全てを持って穿つ。震える膝を抑え付けて終はナイフを握りしめる。 「――神木さん。君は何がしたいの?」 自我のないキマイラは何も応えない。唯、其処に居るのは獣にすらなれない惨めな『蠢く物』。終は唇を噛み締める。一度燃やした運命。もう後はないと折れそうになる足を支えて走り出す。疾風の如く、走る彼の目は実花を映す。 『我等は他の行き場を知らぬ』 一度相見えたビーストハーフの顔を思い浮かべる。彼らを作り出した女。彼らの行き場を示すことなく亡くなった女が此処に居るなど、何の因果か。何かあるならば、全て止める。注意深い観察眼も霞み始める。 「オレはあんたを阻むよ」 死にたがりは目を開く。踏み込むたびに崩れかける膝を無理やりに立たせて。氷を纏ったその拳を女の腹へと叩きつける。真紅の瞳に女の顔が一杯に映る。鈎爪が終わるの腹を引き裂く。激しい痛みと共に溢れだす血など彼は気にしなかった。 死にたがりは、死に場所があれば死ねる。此処は、死ぬ所ではない。 「あんたが何をしたいのかなんてオレは知らない。だけど、止めてあげる☆」 なんちゃって、ピエロは笑う。 血に塗れ、震える足を押さえながら、もう後一発殴りつけたら自身の体力も尽きてしまうだろう。じんわりと染み出す血。死ぬなら、自身の価値を見出してからだ。 此処では、死ねない。 「――無価値がどれだけ足掻いてもハッピーエンドに届かなくたってバッドエンドにはさせないよ」 もう一度踏み込む。 素早く彼は実花の右手を避ける。頬に掠める緑の巨大な鈎爪。軸足に体重を乗せ、一気に彼はナイフを放った。澱み無き連撃が神木実花の腹を裂く。溢れ出る血に声に為らない声で女はのたうち回る。 「ッ――撤退だ!」 自己再生が効かなくなったキマイラの様子にインヤンマスターが叫ぶ。其れに応じてナイトクリークもクィーン・アラーニェを見遣った。脚が欠け、自我が無くとも痛みを感じている機織りの蜘蛛を連れ取って彼らは闇へと走り去る。追いかける事など、今は必要なかった。膝をつく。終の目の前が暗くなる。 握りしめたナイフが彼の手から離れる。其の侭青年は意識を手放した。 グレゴリーがふら付く、彼の腕を支えたのは佐伯天正、その人だった。 零児の炎を宿していた眸が、開かれる。失いかけていた意識が急速に覚醒した。 零児の絞り出した呼びかけに彼はゆっくりと振り向いた。だが、その眸はある種の信頼関係でもあるかのように揺らがない。この場所で戦うべきではないと両者ともに分かっているのだ。 何度となく戦ったアラストールや真琴は気を失っている。零児の腕にはもはや力が入らない。視線を逸らした男は魔術師を連れ去った。 『取引』は失敗に終わった。 苦戦を強いられながらも『混沌』を呼び出す事を防いだリベリスタ達の勝ちだ。 天正の背を見つめていた零児の意識が落ちる。 ● 東京都某所。この大都市の夜景を一望できる展望レストランの角の席。 「聖四郎さんと言う存在がこの世界に在るだけでアタクシは幸せですわ」 こんなに素敵なモノをいただけて、と紫杏は内緒話をする様に聖四郎へと顔を寄せて囁いた。その手にはUSBメモリーが握られている。此度の作戦は聖四郎の有能な頭脳を持っても敗北を予測する事は出来なかった。勿論、紫杏へのプレゼントも急遽変更を余儀なくされている。 「少し内容は変わってしまったけれど俺からのプレゼントだよ」 変更されたプレゼントはそのUSBメモリーの中身――リベリスタとキマイラとの交戦。しかも同じ戦場に立っていた研究員が取ったより精度の高い情報。負傷して帰ってきたキマイラの自己再生の仕方。それに加えて寸での所で召喚を止められた『混沌』の生体反応、儀式に発生したエネルギー反応も同封されている。 「素敵なプレゼントを有難うございますわ! 聖四郎さん、大好きっ」 浮かべたのはまるで少女の様な恋情。そっと聖四郎は視線を窓へと寄せる。嗚呼、なんと綺麗な夜景なのだろう。 混沌の足音の聞こえない、静かな夜。 「準備は――」 恋人の問いにゆっくりと、言葉を吐き出す様に紫杏は紡いだ。 嗚呼、嗚呼、揃った。揃った。膨大なデータに一つ、又一つ積み重なる。 それは、この広い夜景に飲まれる様に消えていく言葉。内緒話をする様に近づけた顔に浮かんだ笑みは、もう恋情を孕まない。其処に在るのは兇姫。 鼓膜を揺さぶる凛とした声は只、不吉を紡いだ。 「――あと、少しですわ」 不快なまでに蠢く者は今は息を潜めていた。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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