● 不調の原因を探るのを、先延ばしにしていたのがいけなかったのか。 余命は持って半年だと告げられた。 まだ、齢は三十を数えて少しだ。 頬が引き攣って漏れた笑いに、医師はそっと目を伏せた。 近い別れが見えている顔と、未来のない会話をするのが辛いと、結婚を誓った恋人は消えた。 何も知らないまま、大病の後に臥せたままになった母は笑う。 遠くない内に、死ぬ前に、孫が抱けるかな、と。 母一人子一人だからと、無理をしたのが祟り患った母。 楽をさせてやりたい、落ち着かせてやりたいと駆け抜けてきた人生は、母より早く終わる。 笑顔が無性に辛い。 孫どころか、何一つ残せずこの不義理者は先立つのだと。 そうだ。 残されて母はどうするのか。他に頼れる行き場はなく、専門の施設に入れる程の貯えもない。 望まれぬ子を宿したが故に母は親類縁者全てと縁を切っており、連絡先も何も知らない。 友人に頼るには余りに重い。 かと言って、突然自分が倒れてしまえば、ほぼ自力で動けぬ母には何もできまい。 どうすれば。 どうすれば。 ……どうすれば。 気付けば荒縄を持って、遠くの山へと来ていた。 未だに夢うつつで現実味がない。 母は、苦しまずに逝けただろうか。無抵抗だったから、最期まで目覚めなかったのだと思いたい。 赤黒く変色した顔に泣きながら何度も何度も謝って、母が好きだった花を傍らの花瓶に挿し、布団を綺麗に掛け直して家を出た。 最早、己には何もない。 誘われるように入った、場違いな洋館。 廃墟となる前は、ホテルか何かだったのだろう。 その中心には、自分が持っているのと同じように、輪になった、縄が、無数に――。 ● 「リベリスタの皆さん今日も今日とて依頼です。皆さんのお口の恋人、断頭台ギロチンがお伝えします」 薄く笑って、『スピーカー内臓』断頭台・ギロチン(nBNE000215)は礼をする。 「場所は閉館した山中のホテル。倒して頂きたいのはE・フォースです。このホテル跡は、所謂『自殺者の霊が出る』という心霊スポットになっています。剥き出しになっている配管や鉄骨に縄を引っ掛けての首吊り。その噂を聞きつけた肝試し客の悪ふざけで、今や大量の縄が天井から垂れている状態です」 肝試しの証拠に、訪れた記念に、そんな軽さで残された無数の縄。 実際に首を吊った人間はいるのか、と誰かが問えば、ギロチンは溜息と共に頷いた。 「数人。……実際に肝試し客が遺体を見つけた事もあったそうで、余計に『霊が出る』という噂に信憑性を与えてしまっている。……更に、人を呼んでもいます」 死にたいと願う人が、覚悟を決める為にやってくる。 ひとけのない場所だから。既に死人が出ている場所なら迷惑は少ないと考えるから。一人では寂しいから。ここで『死ねた』人々にあやかりたいから。 理由は様々だが、誘われるようにこの場所にやってくるのだという。 「そして今回も、皆さんが到着する頃合に一人の男性が自らの手で命を終えようとしています。彼は病で己の命が長くない事を知り、動けぬ母を憂い、一人で思いつめた挙句、母親を殺して自らも死のうとここに訪れています」 誰かが、目を閉じた。 ギロチンは常の如く軽い声で説明を続ける。 「男性が首を吊ろうとすれば、E・フォースが現れるでしょう。彼らはここで死んだ人々と、訪れた肝試し客の思念が交じり合ったものです。歪な首吊り人の姿を、しています。男性が首に縄を掛け、地面から足を離した瞬間に彼らは男性を殺し、E・アンデッドへと変化させます」 大人の手首から肘程度の長さまで伸びた首。 そこに掛かる縄は、遥か上空から吊り下がっていて切る事もできない。 ほんの数センチ、地上から足を離して、滑るように浮いて迫ってくるのだという。 歪んだ形相で、確かに死んでいる顔をしながら、手を伸ばしてくるのだと。 「建物はだいぶ老朽化していて足場が悪く、加えて余り派手な広範囲技を使うと天井や壁が崩落する危険があります。とは言え、加減して討伐に失敗したら元も子もないので悩ましい所です。更に面倒な事に、先の通り天井からは縄が無数に下がっている状態でして……縄ならそこまで皆さんの害にはならないんですが、縄を掛ける時に老朽化した配管や鉄骨の一部を折ったり曲げたりする人も多くて、飛び出したそれによって低空飛行状態だと逆に動き難くなる場面もあるかも知れません」 そこまで続けて、ギロチンは一度口を閉じた。 考えて、続ける。 「……『生きてさえいればどうにかなる』という言葉は、追い詰められた人に対しては上っ面だけで滑る事の多い言葉だと、ぼくは思います。ましてや彼は母親を既に殺している。命はもうどうしようもない」 けれど、とフォーチュナは目を伏せた。 「ぼくは『死んだ方がマシ』という言葉も使いたくはない。先程の通り、失われた命はどうしようもない。苦痛に耐えかねて自ら発する言葉ならともかく、他者が『どちらが良いか』を勝手に決めるべきではない、と、ぼくは、思うんです」 ならばどうすれば、と誰かが問う。 分かりません、と首を振った。 ここで生き延びたとしても、男性の命の灯火は残り僅かだ。最愛の母を手に掛け、孤独となった彼は残りの日数を何を考えて過ごすのか。過ごさねばならないのか。悔恨と懺悔の日々は、再び己の命を絶とうと思わせるに足るのではないか。或いはそれさえも、己の罪だから背負えと言うのか。希望のない日々を、未来の消えた日々を、終わりが来るまで待てと言うのか。 「……ごめんなさい。せめて彼が母親を手に掛ける前に視えていれば良かったのに。それはもう、嘘にできないんです、ぼくが吐ける嘘には限界がある。何が良いのかも分かりません。どうやっても助けろとは言いません。当然見捨てろとも言いません。皆さんにどうにかして欲しいという事でも、ありません。ただ。……世界に悪影響を与えるエリューションは、倒して下さい。……ごめんなさい」 ぼくには最良の未来を視る力はないんです。 そう告げて、ギロチンは小さく息を吐いた。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:黒歌鳥 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2012年06月04日(月)23:42 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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● 雨が降る前の様な湿った空気は、実際の天候や山中という状況によるものなのか。 それともこの場に在る雰囲気が、そう感じさせているのか。 縄が、雨の日に梢から滴る雫の様に垂れ下がっている。 首吊りの象徴、終わりの象徴、行き止まりの死を表す記号。 一つ瓦礫を踏みしめて、二つ縄に手を掛けて。 輪の向こうに覗く景色はただの廃墟、打ち捨てられた寂しい残骸。 祈る神仏もなくした彼は、目を閉じる。縄を握る。 「駄目ええぇっ!」 響いた涼やかな声が、彼の意識を呼び戻した。『禍を斬る剣の道』絢堂・霧香(BNE000618)の抜き放った刃の一閃が縄を絶ち、体重を預けようとしていた彼はバランスを崩し前方に倒れこむ。 霧香は駆け来た『名無し』氏名 姓(BNE002967)へとその体を引き渡した。 既に周囲には、異形が現れている。 濁った眼球は白の虚無。人の皮膚の限界を超えて伸びた首には、縄の痕が残っていた。 尻餅を付きかけたような、途中の格好で姓に支えられたまま、男、間野・一磨はぼんやりと、その姿を見詰めていた。死に際の幻覚なのか。これは既に、地獄なのか。 一磨の視界を、銀が過ぎる。 何の備えもない彼が数度足を取られそうになった足場をものともせず、軽やかに駆ける『告死の蝶』斬風 糾華(BNE000390)は横を通る一瞬だけ赤い瞳を向け、躊躇わず異形の前へと立ちはだかった。 「貴方達に、彼の決断の邪魔をさせはしないわ」 振るわれた両手、締め付ける糸の煌きは彼女の髪にも似て。 「死へといざなう貴方達こそが、冥府へ堕ちなさい!」 睨め付ける視線は、『蛇巫の血統』三輪 大和(BNE002273)のもの。 彼女は振り返らなかった。糾華の姿を視界に納め、此方もまた平坦な道を走るかのように瓦礫を飛び越えて『哀縄』と名付けられた異形へと糸を絡めた。 「日逆さんの斜め前、注意して」 「分かった」 駆け出す前の一瞬、自身の勘が告げた場所を呟いた『fib or grief』坂本 ミカサ(BNE000314)に『鏡文字』日逆・エクリ(BNE003769) は頷きを返す。 崩れた天井の一部が、細い鉄骨で繋がったそこ。よくよく見れば、そこから天井に細いヒビが走っていた。下手に手を掛けたり足場にしたりすれば、続く天井の下にいる仲間達が危険だろう。 ミカサの手が地面近くを滑り、練り上げられた気の糸を張る。土気色の爪先がそれを引っ掛けた途端、跳ね返った糸は無数に分裂しその体を捕らえた。 目前で展開される光景にも鈍い反応しか示さない一磨に、『茨の守護騎士』ユーニア・ヘイスティングズ(BNE003499)は眉を上げる。 「俺ガキだし難しいことはわかんねーけどさ、あんたの事助けたいってやつがこんだけいる訳よ」 ちょっと話したい事があるらしいから、待ってなよ。 眼帯に隠されてない方の目を細め、ユーニアは哀縄へと向き直る。 「すぐにこいつら片付けるからさ」 何なのだろう。この光景は、何なのだろう。彼らは、何なのだろう。 ようやく疑問が形と成って来たらしい一磨に、『下剋嬢』式乃谷・バッドコック・雅(BNE003754)は目を向けた。 「あたしにはあんたが必要なんだ。死なせねぇ」 理解できない現状に目を動かし始めた一磨に、姓が囁く。 「ここで死んでもああなるだけだよ。死んでまで人に迷惑かけたくないだろう?」 「あ、……」 一磨の視線が、哀縄を捉えた。 伸びる縄。 空ろな視線。 それは、一瞬後の自分の姿だったのか。 半ば条件反射の様に頷いた一磨に同じものを返し、姓は先程来たばかりの道を引き返す。 死者が決して辿る事のなかった、帰り道を。 ● 糸から逃れようと体をくねらせる哀縄が、リベリスタを見詰める。 力のない瞳で、見詰める。そこにあるのは空虚。 奥で自分達を睨み付ける雅を、エクリを、引き込もうと手を伸ばす。 「させるかよ!」 空虚の視線を、不可視の指先を遮る様にユーニアが雅の前へと立ち塞がった。 絡み付く見えない腕は、しかし彼の心を捉えない。その身を汚さない。耐性を持つ彼は、その渇望へと染まらない。それでも。 「……ふん」 鼻を鳴らしたユーニアの心に、影を落とす。無駄じゃないか。こんな事をしたって。抵抗したって。幾ら身を守る術があったとして、何れ死ぬのではないか。何故、抵抗するのか。抗う体とは別に、削がれる意志。 同様に、それはエクリをも侵していた。 「……っ」 毒が回る。鼓動一つの度に、ぞぐりと回る血が命が輝きを失くしていく気がする。 死が間近であるとは、こういう事なのだろうか。落ちていく砂時計の音を、勢いをなくしていくそれを聞き続けなければならないような不安感。もう戻れないと、無数の声がする。戻れやしない。後は死ぬしかない。これ以上の希望はない。望みはない。全て潰えた。消えてしまった。幸せだった日々になんて、戻れない。あとは、だから。 死ぬしかない。 違う、とどこかが叫んでいる。そんな事は望んでいないと叫んでいる。 だが、朦朧とした意識がそれを許さない。 細い指が掴んだ閃光弾は、仲間ごと巻き込む位置へと狙いを定め――。 「まだ死ぬには早いんだよ!」 エクリの手から放たれる前に、雅が周囲を光で照らし出す。 霞んだ意識を叩き起こすような意志を秘めた光に、エクリははっと手の中のそれを握り直した。 目線を合わせた雅と軽く頷き合う。大丈夫だ、と。 入り口に一磨を置いた姓が、その前に滑り込んだ。保護を優先したが故に、一瞬だけできた隙。 もうそれは有り得ない。だから姓はエクリに肩越しに視線を送った。 「お待たせ、次からは任せて」 「……大丈夫。次はない」 誘われはしない。そう首を振ったエクリに、姓は軽く笑みを返す。 決して楽な戦いではなかった。 リベリスタの攻撃は確かに哀縄の動きを幾度も止めたが、流石に攻撃の全てを封殺する事は叶わない。 抱き締められた。背骨を折るような強い力に、大和は眉を寄せながらも運命を削り耐えた。 引き換えに身を包んでいた致死の呪いから逃れたのも、回復を持たず動きを止めて叩き潰すことを前提とした作戦を立てていた彼女等には不幸中の幸いにもならない。 「……貴方の誘いに、乗れば、責任も重圧も、みんな綺麗さっぱり捨てられるのでしょう」 残された家柄を、血を、役目を。家族を。 全て捨てて、死と言う安穏に浸れるのだろう。 「ですが、私には重くとも捨てることなどできないのですよ」 重い。確かに背負うものは重い。戦場でいつ失われるとも知れない自分の命。たった一人の母を置いて、という不安はいつだって付き纏う。けれど、大和は止水を握り直す。 「私の中にあるのは、母から託されてきたものだから、自分で背負うと決めたものだから」 逃げたりなんかしない。 楽を選んだりしない。 「それを置いて、安穏とした死を選んでなるものですか!」 目の前の哀縄の額に突き立てた、道化のカード。 それは、死を望む心を一笑に付し――塵のように、異形を崩れさせた。 「あたしは、生きていればなんとかなる、なんて言わないけど」 霧香が刃を振り上げる。動きを止めた、その相手に。 「死なないし、死なせない!」 失われた命は帰ってこないから。決して、奪わせはしないと。 災いを絶つ刃が、縄ごと哀縄の首を抉った。 「そう、私は死なないわ。死ぬ気もないわ」 糾華が続いて、刃を取る。絶望を乗り越えられる人間だけではないと、知っている。 だけれど、自分はそんな絶望に浸る気はない。 手を伸ばすのだ。幸福を掴み取るのだ。そう願うだけのものを、自分は得たから。 「さよなら」 刻んだ印は、死の渇望への決別。霧香によって抉られた首から、哀縄は崩れ落ちた。 「生きる必要はないかもね。けど、死ぬ必要もない」 だから生きるのだと。姓が動きを再開した哀縄に向かい罠を張る。 絡んだ糸によって妙な方向に曲がった首に、ミカサの爪が付き立てられた。 流れる血液が、存在する為のエネルギーが、指先を辿って彼へと力を与える。 「俺はね。死ねなかったから」 死を願っても、死ぬ事ができなかったから。だから死なないのだと。彼は指を引き抜いた。 例え生きているのが、死ぬ以上に辛くとも、『やさしい人』になるまでは死ねないのだと、そう決めたのだから。 「俺は絶対に死ねないんだ」 空虚に哀切を秘めて、消滅の間際に自分を見詰めた哀縄に、ミカサはそう首を振る。 いつか決して来るものだとしても、今は。 ● 後に残ったのは、音を取り戻した虫達の声。 「甘いの平気?」 「え、あ……」 姓に置かれた場所にそのまま、呆けたように座り込んでいた一磨にエクリが水筒を差し出した。 満たされた液体はホットミルク、落ち着くようにという少女の心遣い。 「あたし達、予知能力者に教えられてきたのよ」 「……はあ」 「ええ。だから、貴方の事情は凡そ理解してるわ」 糾華。大人びた表情を浮かべる少女二人に、一磨の視線が落ち着かないように動く。 決して疑っている訳ではないのだろう。目前で繰り広げられた光景は、確かに人の理解の範疇を超えたものだった。だからこそ、彼はその内容は疑っていないに違いない。落ち着かないのは。 「病で先が長くないのも、母を憂い手に掛けた事も、ね」 「…………」 そう。自らの行った事を知っている、という彼らは、自分に何を言う気なのかと、訝しんでいる。 「その予知能力者はこういう事を『探査する』って聞いてるけど。見付けて、って呼びかけてる場合もあるんじゃないかって、思ってるの」 あなたみたいに。言外にその意味を込めて、エクリは目を向ける。助けてくれ、と叫んでいる人を、探し当てる事もあるのではないかと。 だから何か言う事はないか、と。 黙り下を向いた一磨に、ユーニアが歩み寄った。 「あのさ。もし死にたいなら俺が楽に死なせてやるよ」 けど、と少年は首を傾げる。 「死にたいって、どんな気持ちだ? ああ。何を言っても馬鹿にしたり否定したりはしねーよ」 俺にはどうせ分からないから。付け足された言葉に、一磨は顔を上げた。 「分からないなら、聞くだけ無駄だろう?」 強張った顔は、拒絶を伝えている。 「分からないと思って聞くならば、何も分からない。理解する気がないなら、君にとっても私にとっても時間の無駄だよ」 言葉に覇気はなくとも、自身の半分程度の年でしかない少年へ激昂する事はなくとも、棘を伴った明確な拒絶だった。それは壁に語るのと変わらない、と。 「じゃあ、あたしに教えて」 雅が、一磨の前に屈みこんだ。 目立つ髪をした少女に一磨は目を眇めるが、瞳にからかいの色がないのを見て続きを促す。 「あたしも分からない。だからあなたに共感も慰めもできない。その気持ちが分からないから」 形だけの共感ならできるだろう。当たり障りのない事場で慰めもできるだろう。 だが、本来の意味でのそれは雅にはできない。その苦しみと通じ合い、先へと続く慰めはできない。 「あたしは気持ちを理解できるリーダーになりたい。いつか部下を持った時に、同じような絶望を抱えさせたくない」 だから教えて。状況からの類推ではなく、他者からの推察ではなく、その状況に陥った『本人』の言葉を。見詰める少女の主張はある意味身勝手である。この先自らが他者を理解する為に、追い詰められた人間に『どう思うか教えろ』と尋ねているのだから。雅自身も分かっている。酷いと理解しながらも、一磨にしか尋ねられないと思うから聞いている。 一磨はほんの少し、そんな少女に苦笑を向けた。 「……だったら、尚更君は私に聞くべきじゃない」 感情は十人十色。同じ状況に置かれても懸命に生きる者もいるだろう。自分程の罪は犯さずとも、荒れて破滅していく者もいるだろう。或いは世界と『幸福な人々』を憎んで凶行に走る者すらいるかも知れない。 他人の気持ちなど、類似した状況の他人に尋ねても仕方ないのだ。別の人間だから。 「……あの、あたしは、あなたにどうこう言える立場じゃないけど」 羽織の袖を掴んで、考えながら霧香は言葉を紡ぐ。 二十年にも満たない生は若く未熟で、叶う限り手を伸ばしたいと望むその姿は一部の人間からは甘いと評されても仕方ないものだろう。だからこそ、告げておかなければならない事がある。 閉ざしてはならないのだ。死んでしまえば何もできないから。生きていても叶う事は少ないが、死は全てを潰してしまうから。短いかも知れなくとも、まだ残っている。可能性は潰えていない。 「まだ、あなたは生きてるから。まだ、何かできるから」 生きて欲しい。そう願う少女に、男は目を伏せた。 ありがとう、と漏れた言葉は真実だろう。自分だったらどうするか、どうなるか、迷いを秘めながらも精一杯思いと願いを乗せた霧香の言葉を、跳ね除ける事はしなかった。 例えば、彼が事を起こす前であったら、それは、明けの明星の光とも成り得ただろう。故に彼は、目を伏せる。身を蝕み始めた、後悔に。 「……さあ、決断よ。残り少ない生を全うするか。ここで……死ぬか」 前に進み出た糾華が問う。握り締めるは常世蝶。 「死ぬならば、自らの命を断つ咎を背負う必要はないわ」 掌に載せたミゼルコリデ。慈悲の名を持つ短剣は、苦痛から速やかに解放する為に。 唇を一文字に結んで、刃を手に見詰める少女に、男は首を振った。 「ならば、君が負う必要は尚更ない」 彼は自身で、母を手に掛けている。他者の命を終わらせる重みを、身を持って理解している。 だから首を振った。渡せない、と。 別に、誰を憎んでいる訳でもなかったから。 誰かに重荷を載せたい訳でもなかったから。 だから誰にも渡せない、と一磨は首を振った。 「……死ぬのは、恐い筈だ。足掻きたくとも足掻けぬ苦しみから逃れたいだけで、死にたくなんかないだろう?」 「そうだね。死にたくは、……『なかった』よ」 もう遅い。過去形のそれ。 結局の所、ここで助かった彼の何かが楽になるという事はないのだ。リベリスタの介入により変わった状況は、化け物にならなかったという、その一点だけ。彼の命は残り少なく、彼の手は母を殺し、彼の罪は消えやしない。 「この上、死んで『まで』迷惑は、掛けたくなかったのだけれど」 最初に囁いた姓の言葉を繰り返し、彼は力なく笑う。何も、変わっていないのだ。そして、誰が変えられるものでもない。 正しい形の命は、一度失われればどうやっても戻ってこない。 「ねえ。もし、君が殺したのが『一人遺すのが可哀想』って『優しさ』だったならさ」 ストライプ地に振り落ちてきた塵を払い、ミカサが表情のない白面を向けた。 人によっては冷徹にさえ見えるであろうその顔は、唇は告げる。それが優しさだと言うならば、母親の傍で死んであげるのが道理じゃないの。と。 「目を逸らして死ぬなんて、狡いよ」 罪が全て己の物だというならば、誰にも渡さないというならば、全てを負う気ならば、自分の引き起こした結果から逃れるように遠く、こんな非日常の中で死ぬのではなく、最期のその瞬間まで見詰めていなければ、合わないじゃないか。 死ぬなとは言わない。それが決断ならば、止める気はない。 だが、こんな中途半端では後悔する。 本人の思いと決断を重視するのも、また『やさしさ』ならば――ミカサはそれ以上何も言わず、口を閉ざした。 「……そうか。……そうだね」 青年の言葉に、一磨は再び、暫し黙る。ややして、ユーニアに顔を向けた。 「……当たって申し訳なかったね」 「……いや。あんたの残りの人生が、少しでもマシな事を祈るぜ」 軽く手を上げたユーニアに頷いて、一磨は気遣わしげな視線を向けたエクリに水筒を返す。 「ご馳走様。後。……『助けてくれて』ありがとう」 手に握ったままだった縄を、その場に捨てて。 一磨は、皆に背を向けて歩き出した。 ● 一週間も経過しない、ある日。 とある市内で、男性とその母親の二人が遺体で発見された、という三分にも満たない短いニュースが、夕方の番組で流れた。 部屋は片付けられていて、遺書が存在した事から男性が無理心中を図った疑いが強いとみて現在捜査を進めていると。男性の母親は数年前から寝たきりの状態で、男性自身も健康に不安を抱えていたと。流れる声は、いつものニュースと何も変わらない様子でそれを告げた。 ほんの短い時間であったのにも関わらず、家で、街中で、店で、アーク本部で、リベリスタがそれを聞き留めたのを、偶然と言うならば――きっと、それまで。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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