●ある仏教家の断末魔 生きて、老いて、病んで、死ぬ。これを「四苦」と呼ぶ。 愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えて八苦とする。 人として逃れられぬ苦は、その精神を絶えず磨耗させ、魂が朽ちていく。 朽ちた魂はやがて人としての死を迎え、光を失い摩滅する。 だから、ああ、だから。 人を超えれば八苦から逃れられるのかといえば、無論そんなことはなく。 病に伏せて奇跡を願い憎しみに会いて愛を失い。 仏門は苦しみを救ってはくれず。 仏門は苦しみを理解させるだけであり。 やはり私はどうしようもない苦痛の上に立たざるをえないのだと理解させて。 ああ、だから。 私は八苦を撒き散らす怨念となりて。 ● 「こんにちは。皆さんのお口の恋人、断頭台ギロチンです。早速ですけど、皆さん『四苦八苦』って言葉ご存知ですか。ええ、ええ、何かこう凄く大変そうなイメージですよね」 大変アバウトな説明をした『スピーカー内臓』断頭台・ギロチン(nBNE000215)は、ブリーフィングルームに集まったリベリスタに向けて姿勢を正す。 「夜倉さんが先日『視た』のと出所は同じ。とある高名な僧侶……先日お亡くなりになったんですがね、その方の思念を元にしたE・フォースです。 まあ、悟りを説く仏法の徒とは言え、人間です。生きる事に悩み苦しみ絶望する。けれど立場上表には出さない、出せない。いっそちゃぶ台でも引っ繰り返してやってられっかって叫べば良かったのかも知れませんねえ。けれどそれができない程度には――人だったのでしょう。周囲の期待と尊敬の目を裏切れなかった」 中々人間は悟りまで行けないんでしょうねえ、と青年は首を振る。 「で、延々と愚痴を吐き続けるだけのE・フォースならまだマシだったんですが、先の四苦八苦に繋がります。四苦八苦ってつまり普段使ってる意味じゃなくて、元の仏教用語の方です。えーと……生、老、病、死に更に難しい四つを加えて四苦八苦、らしいです。で、今回のそれは難しい四つの一つ、『愛別離苦』となりましょうか」 言葉で何となく分かると思いますけど、と前置きをしてから、続ける。 「簡単に言えばそうですねえ、『別れの苦しみ』です。諸行無常的に言うと死別や理由あっての生別、もっと俗っぽい対象ならば愛の終わりとか。老少不定、朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身。人の縁とは奇なるものなれば、愛別離苦も避けては通れぬもの――とはいえ、それと強制的に遭わされるのは全く宜しくありません」 「で、前置きはこの程度。今回皆さんに行って頂くのは、とある寺の近くに住むご婦人の家です。――彼女は先日、一人息子と義理の娘、そして孫を全員失っています。スリップ事故で川に転落、流れが速く深い場所だった事もあり、救出が遅れ……という理由もあるにはありますが、本をただせばこのE・フォースの仕業です」 婦人は事件の後、家に閉じ篭っている……というのは何も知らない近所の人間の談。 彼女はE・フォースによって別の空間に閉じ込められた上、『家族がいる幸福な生活』と『それが一気に奪われる苦しみ』を繰り返し与えられているのだという。 記憶を操作され、家族の死は無意識の内にだけ残し、何も知らずに幸せな日々を送ってはどん底に落とされる。死の事実と悲しみは、奥底から完全に消された訳ではないので、段々と磨耗していく。 日々が幸せであればあるほどに、落差によって精神が緩やかに朽ちていく。 家族はいつだって、彼女の目の前で死んでいく。 「彼女の家族はこの空間の中で一定時間『幸せな時間』を過ごした後、強制的に殺されます。皆さんは、その『死の要因』となるものから救って下さい。とは言え、それ自体は皆さんにとっては簡単でしょう」 リベリスタが向かう頃に婦人が迎えている状況は、彼女を除く三人が買い物に行き、外に出て迎えた目の前でトラックに轢かれるというもの。 革覚者の能力を使えば、トラックの前に飛び込み救い出す事など造作もないだろう。 だが、救い出すとはどういう事か。 「ええ。勿論、それはE・フォースの一部です。ですが、妨害者が現れれば、E・フォースはそれを排除しようとするんです。その時点でループから抜け出した婦人は空間から出され、皆さんだけになります。そこには、彼女の家族が揃っています。――同時に、皆さんにとって『会いたくとも、もう会えない人』の姿を取りながら」 人数が多い為、E・フォースは一先ず婦人の家族の姿を取り続けている。 しかし、リベリスタがその姿に顔を向け、刃を向けたなら。 その真奥の後悔を、葛藤を、絶望を読み取って姿を変えるのだと言う。 「ぼくらは人間です。革醒して身体的には違うものになったかも知れません。けれど、聖人と崇められた僧侶が人間であったのと同様――ぼくらの中身は、人間のままです。そう、思っています。だから、きっと苦しいと思います」 会いたい。会えない。けれど会いたい。あんな別れを告げたあの人に、もう一度。 もう一度出会って、殺して別れる。 いや、それは心中を投影した偽者に過ぎないから、『もう一度会えた』訳ですらない。 それでも。 「……婦人の事は、気に掛けなくて大丈夫です。彼女にとって、空間内の出来事は『夢』にしか過ぎませんし、ぼくらにできる事は、何もありません。彼女の家族が死んでしまったという事実を遡ってなくす事はできません。無用に心を掻き乱さず、事故であったと、幸せな光景は夢であったと、思わせたままで構いません」 軽く目を閉じて、ゆるゆると開く。 「……人が死んだ事は、嘘にできません。どうやったって、帰ってこないんです。だから、彼女の家族が生きて幸せな日々を過ごして死ぬ事を嘘にして下さい。皆さんが会いたい人と会えるかも知れない、なんていうぼくの言葉を嘘にして下さい。皆、もう会えない人なんです。……お願いします」 唇の端を上げたまま、視線は宙に彷徨わせて、ギロチンは頭を下げた。 ● 春から一緒に住むはずだった。 入学式には一緒に出るつもりだった。 校門の所で写真を撮ろうと息子は言っていた。 若くして亡くした夫と、同じ年頃に、面影を残した顔で笑っていた。 お義母さんの料理を教えて貰わなくちゃ、と娘は笑っていた。 息子より年上の、正直で働き者の良い子であった。 時折見せる仕草から、本当に息子を気遣ってくれているのが分かった。 ランドセルを買った日、孫はその日ずっと背負ったままだった。 大きくなったんだ、と笑う姿は本当に目に入れても可愛くないと思った。 全部冷たい、川の底。 「おはよう」 「おはよう母さん、今朝は冷えるね」 「あ、ちょうど良かったお義母さん。お味噌汁の味見てくれます?」 「おばあちゃんおばあちゃん。リンゴむいてー」 「こら光喜、おはようございますは」 「お母さんだって言ってなかったじゃん」 「……あっ。おはようございます」 「ずるだー。ずるしたー」 「ふふ、おはよう」 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:黒歌鳥 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2012年04月11日(水)22:14 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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● 耳障りなブレーキ音。横合いから突っ込んでくるトラック。 まだ状況を理解していない孫が、にこりと笑って、『また』赤が、 「趣味が悪いよ」 思いを断ち切るように、一人の少年が飛び込んだ。手に持ったナイフをタイヤに向けて突き込んだ。ホイールと刃が触れ合って、火花が散る。トラックが悲鳴を上げた。火花で照らされた三人の前に、少年と違う誰かが躍り出る。コマ送りの風景の中、彼等だけが早回し。 眼鏡を掛けた女性が、息子の腕を強く引いて後退させた。フランス人形の様な幼い少女が片手で孫を抱き上げ、青い目の小柄な少女が娘の腰へ細い手を回し、その二人を更に別の細身の少年が引き寄せる。 最初の少年の一撃で軌道を変えられたトラックが、電柱に突っ込んだ。 耳が痛くなるような音の中、腕の中の孫はこちらを見て、安堵したように笑って、 ああ、今度『は』 ● 背景が消失した。 足元が消失した。 暗闇で、仲間と三人の幸せそうな家族だけが浮かび上がっている。 『くるみ割りドラム缶』中村 夢乃(BNE001189)は睨み付けた。 神秘に誑かされない心を持つ彼女は、偽りの光景を振り払う為に誰よりも早く動ける準備をしている。嘘だ。全部嘘だ。会いたい人に会えたという高揚も、冷静な判断さえも鈍らせる程の喜びも――全部嘘だ。 だって――そんなこと、あるはずがないんです! 心の中で悲鳴を上げた夢乃の視線の先、三人の家族が顔と形を変えていく。理性は酷く冷めた様子でそれを見ていたが、根幹にある感情ばかりは何も感じない訳にもいかない。それが現実ではないかと、揺れてしまう事が許されないだけ。 指先に絵の具を付けた男性だ。傍らで笑う女性だ。その傍に、男の子がいる。三人の家族は、別の男女と少年に変わっていた。 瞬いた後に、彼らは車の扉を開いていた。ドアを開いて、乗り込んで帰ろうとしている。少年が少し照れくさそうに、まるでエスコートでもするかの様に、夢乃に向けてドアを開けた。 整った顔立ちに褪めた色を浮かべた『蒙昧主義のケファ』エレオノーラ・カムィシンスキー(BNE002203)は、変わっていく姿を見詰めている。金髪の女性だ。秘密を囁くように、彼女はそっと唇に指を当てた。Милая、と微笑む彼女は、美しかった。 お母様、と意図せず唇が紡ぐ。流れる金髪も、澄んだ目の色も、彼とよく似た遠い日の母。今のエレオノーラを形作った一人。波打つ髪の手入れの仕方も、紅の引き方も、淡い微笑み方も、学んだのは彼女から。 女の子は嘘吐きだ、と母は息子に囁いた。鳥の囀りに似た無邪気な会話の中に、ベルベットの様な深みを秘めた蠱惑的なささめきの中に、息をするように嘘を混ぜるものだから、貴方もそうでありなさい、と。だけど。大切な人には嘘をついてはいけないのだと。だから女性に、彼はよく似た笑みを返した。 本当に、嘘吐きなのね、と。 そりゃァ、お前が来るよな。『チェインドカラー』ユート・ノーマン(BNE000829)の呟いた言葉は諦めを帯びた色だった。分かっていたのだ。話を聞いた時から、ずっと出てくると思っていた。何しろ、幾度も幾度も、こんなE・フォースに憑かれずとも夢に見ているのだ。何をすれば良いのかもシミュレート――いや、実践済み。二度目だ。一度できたことは二度できるはずだろう。ユートの機械化した左手が、拳を握る。 嫌だ、と心が叫んでいるのが聞こえる。やる事まで前と同じか、と心に反して冷静な声が唇から吐き出される。また殺さなきゃなンねェ、と乾いた声の裏で、嫌だと叫ぶ自分がいる。もう嫌だ、と叫んでいる。現実で夢の中で幻の中で、『また』彼女を殺すのか。 育ったユートと違い、育たない少女。十を数えた頃であろう、痩せた少女。他に面倒を見ていた子供と同じ様に、根底で自分を慕っていた少女。 覚えている。ユートは選んだのだ。少女より、仲間を。 視線の先には、母がいた。その事実に『棘纏侍女』三島・五月(BNE002662)は、ほんの少しだけ、心の底に感謝を浮かべた。ずっと会いたかった。優しかった。少しだけ頑固だった。家族が大好きだった。だからこそ、父を失ってから少しずつ己を削って行った大好きな母親。 父の死後、時を重ねても子である五月は革醒しなかった。母はそれに納得しなかった。革醒者である父と母の子である五月が、いつまでも神秘の側に来ない事に、削られた神経は苛立った。本来ならばそんな事をするはずがなかったのに、業を煮やして五月を殺しかけた。正気を取り戻した母親が自ら命を絶ったのは、五月の心に今も深い濁りを残している。 本来ならば女性向けに作られた服を彼が纏うのも、それが原因だ。母のように強くなりたい。そして母に褒めて貰いたい。強くなったと、褒めて欲しい。 大好きな母に、傍らで。 やはり、と『フラッシュ』ルーク・J・シューマッハ(BNE003542) は目を伏せる。 よく見知った顔だ。一緒にいた顔だ。共に喜び笑い合い、手を取って歩いてきた友の顔だ。その日々が絶える事なんてないと思っていた。未来ある限り一緒だと思っていた。 だけれど共にいるはずの手はいつしか離れ、視線は異なる方を向き始めた。それがいつかは、ルークには分からない。分からなかったから、その差は決定的となってしまったのか。その差異を理解していれば、力尽くでも引き戻せたのだろうか。 ルークには分からない。親友に向けられた問いに答える事もできなかった彼には、他の道が分からない。結局の所、何も分からない。出会うことは、できるはずなのだ。きっと。いつしか。 永久に会えない訳ではない、と思う。いつか会いたいと願っている。けれど、まだ言う事が分からない。親友は、何を求めていたのかが、分からない。 「……ママ……」 自分の声が酷く遠く、『From dreamland』臼間井 美月(BNE001362)には聞こえた。思い返されるのは、二人だけの食卓。空いた席。会いたい人。消えてしまった人。どこかに行ってしまった、自分の母。 ここにいたの、と思い掛ける。父がずっと探し、自分も追い求めていた人が、そこで笑って手を伸べている。おぼろげな記憶だが、涙で潤んだ視界でも母だと分かった。きっと分かるものなのだろう。『生きていたのなら』、分かるはずだ。 それを信じて、美月はアークに所属している。彼女は自分を臆病者の意気地なしだと思っている。それでも、死の危険と隣り合わせのリベリスタを続け、恐ろしい脅威であるアザーバイド達と接触を続けている。それも全て、バグホールとアザーバイドの付近で姿を消した母親にもう一度出会い、家族三人揃うため。どれだけ確率が低くとも、いつか会えると信じ続けて、ずっと――。 友人とふざけ合う時の表情を一切消して『宿曜師』九曜 計都(BNE003026)は目を細めた。この空間は嘘だ。それでも婦人の思いは本物だ。だからこそ、許さない。もはや届かぬ夢となった現実を与えては奪う外道。 「斯様な外道の振る舞い、私は絶対に赦さぬッ!」 静かに憤る彼女の視線の先には、姉がいる。計都が持ち得なかった才能を持つ女性。届かなかったその存在。なのに姉が、その才能を生かし切れていなかったのが当時の計都にはもどかしかった。崩界を齎す存在にまで情けをかける愚かしさが理解できなかった。力を得られない計都からしたら、力を、それも特に優れたそれを得ているというのに、情に流される姉が苛立たしくて仕方なかった。 蟠った嫉妬と絶望は革醒した時に溢れ出した。何も覚えていなかった。深い奈落に吸い込まれていくような感覚だけ、覚えている。 それでも、目が覚めた時、微笑んでいたのは――姉だった。 手を伸ばしたい。抱き締めたい。泣きそうな顔で、それでも好きな人の前で精一杯『優しい屍食鬼』マリアム・アリー・ウルジュワーン(BNE000735)は笑った。大好きだから、泣き顔なんて見せたくなかった。可愛い女の子でいたかった。いつまで経っても、女の子は好きな人の前では乙女なのだ。 重ねた時は七十を越えた。外見だけはいつまでも変わっていない。いっそ成人していればその姿が変化しない事が不自然と思われるまで間もあっただろうが、育つ盛りに止まってしまった体は人の目を引いた。異常は忌避された。今ならばそれも理解できるが、外見とほとんど変わらぬ年であった少女はひたすら悲しかった。そして差し伸べられた手が、何より暖かかった。 変わらない外見を、奇妙な力を怖がらず、一人の人間として接してくれた彼は、決して世間一般で言う『格好良い王子様』なんかじゃなかったけれど。 「嘘だとしても、会いたかったよ」 微笑む目の端から、涙が一筋零れた。 ● 「――あなたは、本物じゃない!」 夢乃が叫ぶ。同時に放たれた光が、空間を包み幻を打ち払う。逆光の様に、家族の姿が真っ黒に塗る潰される。そうだ。幸せを壊したのは自分だ。運命の恩寵を得られなかった頃の自分が壊した。母を壊して父を壊して彼を殺した。 殺してくれ、と言った彼の顔を覚えている。泣きながら夢乃の首を絞めながら請う彼に、伸ばした手が、抱き締める為ではなかったのを覚えている。 だから握り締めた手も、決して伸ばさない。抱き締めない。抱きついて、背を優しく叩いて貰いたいと、泣き喚く自分の頭を撫でて欲しいと思っても、絶対に行かない。それが偽者だと知っているから。もう届かない夢だと知っているから。 「もう、こんな思いはいらないんです!」 偽りの優しい夢から覚ます為――夢乃の光は、朝の陽光の如く暗闇を照らし出した。 「下りられねェよなァ」 息が、ユートから漏れた。嫌だと叫ぶ声を聞きながら、それでも彼はナイフを握った。心がどんなに叫んでいても、顔は前を見て、言葉は筋を通していかねばならない。選んだのはユート自身。少女よりも仲間を取ったのは、彼の選択。 「そうだよ。お前はあの日、俺が殺したんだ」 いつかと同じく嫌だと叫ぶ心の自分に言い聞かせるように、目の前のきょとんとした顔をした少女に噛んで含めるように、ユートは言葉を紡ぐ。もう一度殺すのだ。彼女を殺すのだ。二度目など嫌だ、と叫んでしまえば、あの日の少女に、そして自分に顔向けができない。全てを背負うつもりで、選んだのだ。より多くのものを守る為に。 「……向こうの兄弟達と、仲良くしろよ」 あの日の光景が、今と重なった。 「一言、話をしたかったのよ」 信じてた。大切な人に嘘をついてはいけない、と言った母親が、自分に嘘をつくはずがないと。日常を装った嘘に、息を吐くようにつかれた嘘に、エレオノーラは今思えば呆れる程にあっさりと騙された。もしかしたら騙されたかったのかも知れない。一言でも話せたならば、八十年もの長き生の中で、彼の性格に合わない後悔の仕方をする事なんてなかっただろうから。 「死者の無念や後悔みたいな、ありもしないものに引きずられるのは半人前以前、って言ったのは貴方よね」 大嘘吐き、とエレオノーラが笑った。半人前など等の昔に脱したはずの彼が見詰めているのは、母親の姿。いつかの後悔。今も抱える後悔。嘘だ。それもこれも、全部嘘だ。嘘吐きの母の姿が、黒く歪む。嘘吐きの彼は、本心を覆って細い呼気と共に銀を握った。作られた天使の唇が、笑みを刻む。よく似た慈母が、よく似た笑みを刻んだ。煌くナイフが、その体を打つ。 ――Спасибо, мама. 息と共に漏れ出た本音は、最初で最後。 「……でも、私が見て貰いたかったのは大好きな母さまです」 五月の手甲が炎を纏う。母の使っていたものに似せたそれ。棘を生やした手甲。どれもこれも、母の姿を追い続けた彼の姿。見て欲しかった。強くなった自分を、母の姿を追う自分を。殺されかけた事もどうでも良い。母を慕う子はそれすら切り捨てる。大好きだったから。それでも良いくらい、大好きだったから。だから、見て欲しかったのに。 「私の拳と棘でいなくなれ」 母を追う姿で、五月は母の姿をした偽者を打ち据える。感謝なんて、してやるものか。会えない人と、会えた事が嬉しかったとしても、結局は偽者だ。 会いたかったのだ。 大好きな母と。叶わぬ事と知っていても。会いたかった、のだ。 「本物の、母さまに」 「人は夢から覚めなきゃ生きていけない」 呟いたルークの目の前にいるのは、夢だ。共に歩くはずだった親友という夢だ。優しくて温かい、来ると信じていた現実を見せてくれる――ただの夢だ。それを知っているルークは、親友と同じ姿をしたものに何も言わずに得物を構える。 「ただ、オレは、今はこの人を救いたい」 かつての日の問いには答えない。今はまだ答えが出ていないし、ここで言うものでもない。いつか来ると信じていて、待ち焦がれると同時に恐れている日に、本人に言うべきはずのものだ。それまでに見付かるか、そもそも自分に見つけられるかも分からないけれど、ルークの言葉は本当の『親友』に伝えるものだ。 だからもう、この相手に言う事なんて、何もない。 「この夢はもう、終わりにしよう」 断ち切られた希望と未来を、ルークは過去の幻影に振り降ろした。 気付いたら、涙がぼろぼろと零れていた。美月には分かっている。アザーバイドもバグホールも、無関係の可能性の方が高い。十年以上も経過しているならば、関係していたとしても足取りを追えるはずがない。会える可能性なんて広大な砂浜で小指の先よりも小さい宝石を捜しあてる確率よりも更に低いだろう。分かっている。 「……も、もう、絶対会えないんだっで……分がって……」 だから美月は求めたのだ。会いたいと。この偽りにでも、何かを伝えたいと。けれど。ぎゅっと唇が噛み締められる。手を伸ばす母に向けて歩み始めていた足が、止まる。会えるなんて事は、奇跡に奇跡を掛けて尚も足りない確率でしかありえない事を知っている。それでも。 「それでも僕は、諦めない」 涙声で、美月は言い切った。諦めない。諦めてしまえば、最後の糸まで断ち切れてしまう。絶対に諦めない。忘れない。母を捜し求めることを、忘れない。 「伝えたい事は! 本物の! 本人に伝える! だから君に言う事なんて! 何も無い!」 未だに頬を伝う涙の温度を感じながら、美月は追い求める母の姿から目を逸らした。 「ちっちゃな頃、教えて貰ったッスよね」 計都の符が、黒い翼を羽ばたかせて姉へと突き進む。優秀な姉が初めて教えてくれた術は、あの頃は全くうまく行かなかった。けれど今は、自在に操れる。迷いなく、『敵』へと一直線に飛んでいく。 姉が与えてくれたもの。運命の恩寵。自らの命と引き換えに、奇跡を呼んだ尊き姿。貫いた腕が伝える感触よりも、微笑んだその顔が計都に状況を正しく教えてくれた。 「貴女の妹であることが、我が誇りだった」 眩しくて、睨み付ける様に底から眺めていた目も、今は真っ直ぐ『姉』を見詰められる。それは力を得たからではなく、今の計都は知っているから。姉の優しさが弱さなどではない事を。貫き続ける優しさは、真の強さでもある事を。 「ありがとう」 舞い散る翼に向けて呟いた言葉は、偽りの姿ではなく――過去の、敬愛する姉へと。 二度と会わないって誓ったのにね。と囁きながらマリアムが丈に合わない斧を振り下ろす。渾身の力を込められたそれに、愛しい人の姿が滲む。狂おしい程の恋だった。大好きだった。ずっとずうっと、今でも大好き。だから。 「貴女の傍を、離れたくなんてなかったよ」 斧に血は付かない。流れない。流れていない。そんなものを切っている自分に、泣き出しそうになる。こんな斧を振り回せる力なんて、欲しくはなかった。変わらない外見なんて、要らなかった。ただ、彼だけが欲しかった。恋をして、結婚して、子供を抱いて、共に笑って死にたかった。 「普通の女の子で、いたかったよ」 伝えられなかった。何も言わずに、出てきてしまった。彼の幸せの邪魔になると思ったから。大好きだったから、負担になりたくなかったのだ。 それでも。 「ずっと一緒に、いたかったよ」 手を離さずに、夕陽に二人の影を並べて、夜が訪れるまで、ずっと、ずっと。 「さようなら」 決別を下したのは、愛別離苦と称されたものではなく――。 ● 「おはよう」 リビングの扉を開けながら声を掛ける。 返事はない。 冷え切った朝の空気だけが、彼女を迎えた。 金糸を縫いこんだ御前座布団に座り込む。 写真の四人が、笑顔で見詰めてくる。 「おはよう」 指先が、横に置かれたランドセルの冷たい革をなぞった。 知らずに涙が零れてくる。 返事は、ない。あるはずがない。知っている。 ――それでも、とてもとても、幸せな夢を見ていた気がして。 知らない少女の声で、『泣いてもいいから、前を見て』と、言われた気がして。 彼女は一人、朝の光の中で泣き続けた。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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