● 「お……お父さん? あのね、クリスマス、なんだけど……」 温かいコーヒーを薄茶色のテーブルの上に置いて、仕事から帰った優しい父の顔を窺う。 声のこわばりは、きっと長く話すタイミングを失っていたから。緊張しているの。 クリスマスを家族で過ごそうと、一週間ほど考え抜いたプランを告げる。 普通の日も特別な日も、家族団欒で穏やかに過ごした記憶など私にはなかった。 だって、忙しかったから。 中学三年生の私が志望校に合格すれば、今よりも忙しくなると分かっていた。 最後のチャンスのような気がしていた。 そんな我侭に夢中で必死で、父を慮ることができなかった。 「疲れているというのにいちいち……うるさいとわからないのか! 15にもなって纏わりついて!」 「ご、ごめんなさ……っ、……ぐッ!!」 蹴られて殴られて、胃から這い上がる嘔吐感を堪える。 『非日常』の時間が終わって、『日常』の時間が舞い戻っただけ。 「香織!!」 母の悲鳴めいた声とお皿が割れる音が聞こえた。 頭だけが熱くて、痛くて、でも体から血が抜けていく奇妙な感覚。 自分の意思では既にぴくりとも動かせない体がもどかしい。 (来ちゃだめ、お母さんもぶたれるのに。 ああでも、お母さんもお父さんも悪くないの。わたしが早く謝らなきゃ。早く早く早く早く――) 「かおり……? ねぇ、かおり。かおり。かおり!」 母の触れる手は私より冷たい。洗い物の泡の下、青黒い痣に胸が痛む。 頬を伝った水滴だけが暖かで、呼吸の終わる直前、ほんの少しだけ口角を上げた。 ● 「以上の経緯で、片瀬・香織(かたせ・かおり)が死亡。直後にE.アンデッド化し、フェイズ1から2へ進行。 さらに彼女の影響を受け、ぬいぐるみ3体がE.ゴーレム化します。こちらはフェイズ1のまま。 以上のエリューション4体の討伐が、皆さんにお願いしたい任務です」 一通りの経緯を告げ、『灯心』西木 敦(nBNE000213)がリベリスタを振り返った。 冴えない顔色をごまかしフォーチュナは笑いさっそくと説明を開始する。 「戦場となるのは高級マンションの一室。玄関から入ってすぐ、廊下の先に彼女の両親が、リビング奥にあたる左手の死角部分に『香織』がいます。 隣室には人も居ますけど、多少の音なら届きませんし、気にされないでしょう。 銃声や爆音ともなると保障できないですけど、それ以外に戦いの場としての窮屈さはないかと思います」 「そして、居合わせた一般人……と言っても、さっき言った彼女の両親ですが。 『香織』の自我が確保されている間、母親には手を出しません。が、父親は最たる標的となります。エリューション化直後から、エリューション達は父親を狙い続ける。特に『香織』は最初から手段を選ばず全力で向かっていきます。恐らく、恨みとは別の感、情」 と、そこまでで話は区切られる。 敦は憶測を孕んだ言葉だったと慌てて謝罪を入れ、しどろもどろに次の頁を促した。 「えっと、エリューションの詳細を。配下のE.ゴーレムはくま、いぬ、ねこの形です。 大きさは膝下くらいで大きくはないし戦闘能力は低いです。小型なので隙間を抜けたりしそうです。 次に『香織』。まず耐久力があります。痛みや怒りは麻痺していると考えてください。それと……父親がいる限りは攻撃の手を休めることは期待できない。『さようなら』って言って攻撃してきたら、避けて下さい」 大振りですが色々削られます。 ぼやいて画面上に映しだされた、異形と化した少女の腕を指す。 示された両腕は少女らしい影もなく獣の腕と酷似し、鋭利で巨大な爪が無気力に付いていた。 リベリスタの誰かが息を呑んだ後、敦は目を伏せて独り言のように紡ぎ始める。 「……『香織』が父親を殺害したなら隙ができます。無防備で、それ以降の戦闘能力も落ちるはず。だから」 「待て。つまり、父親を見捨てろってことか?」 「……皆さんを信じていないわけではないんです。 ただ、それでも、俺からお願い出来るのは、エリューション4体の討伐のみです」 モニターに映るバラバラの方向を向いた家族の写真に目を逸らす。 一人のリベリスタの小さな声が無機質な部屋に響いた。 「死体も無ければ証人もああじゃ……彼が罪に問われるのは、難しいか」 ● 五月蝿いぞと、罵る声が聞こえた。 ごめんなさいと、怯えきった声が聞こえた。 目を覚ます。 手を振り上げる大きな影。 ―――ごめんなさい。謝る、謝るからぶたないで! |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:彦葉 庵 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2011年12月16日(金)21:37 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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●『 』の独白 家族がいた方がいいと思っていたの。 それにね、私が、あの子の傍で、親で、いたかったの。ごめんなさい。 でも、あの人も本当は優しいから。もうしない、ごめんって謝ってくれる人だったのよ。 ほんとうはやさしくてよわいひと。だからふたりでささえようって、あのいえで―― ベッドから身を起こした女性は、少女の問うた言葉に独白を返す。 そうして遠くを見たまま、写真を抱きしめて微笑んだ。 二度目のフレーズを残して、黒髪を高く結った少女は白い廊下を歩く。 いつもの癖でふと携帯電話を取り出せば、病院内である為に電源を落とした画面は黒一面。 鮮やかな電子の色は見えず、歪な鏡代わりに少女の顔を映し出す。 ――目を逸らすように彼女はそっと赤い瞳を伏せ、それをポケットにねじ込んだ。 ●殺害者K 深夜、息を切らせ駆けてもすれ違う人もいないマンション。 目指す一室の扉は、容易く開かれた。 タン、と軽やかな音を立て『音狐』リュミエール・ノルティア・ユーティライネン(BNE000659)の足が壁を蹴る。 そのまま壁から天井に、逆さまになった景色を両の眼で見据えて細く息を吐いた。 「始まっチマッタナー」 足音を。悲鳴を。そんな軽やかな合図で、悲劇は彼らを招き入れ。 「悲劇の先には何があるのか? わからないからこそ照らすとしよう。この悲劇の先を見るために」 反転した世界で『闇夜灯火』夜逝 無明(BNE002781)の白帯と金糸は翻り、鉄打つ鈍い音が空気を震わせる。 この世にいくらでもあるうちの、その中のひとつの不幸。 「前にもこんなことがあった」 ひとりごち、瞳を眇めた。『悪夢の残滓』ランディ・益母(BNE001403)の脳裏に少女が過り、重なり、霧散。 唇を歪めた彼のグレイヴディガーが異形の爪を寸前で止めていた。 「悪いな、手を汚させる訳にはいかねぇ」 「……退いてくだ、さい」 懇願に似た香織の眼差しに、首肯する者はいなかった。 彼の背後で父親がよろめき、テーブルにぶつかった。弾みで机上の花瓶が転がって水が溢れ出す。 傾いた体を、『黒鋼』石黒 鋼児(BNE002630)の手が引き戻し、目があった。 「……うす」 律儀に軽い会釈もした十四の彼だが、見目は頑健な成人男性。父親が息をつまらせた。 その要因は彼だけではない、武装した男から少女、そして娘だったであろうもの。日頃、神秘に覆われていた非日常は、一般人が突如目にすれば当然刺激が強く。 「な、なんだ! おお前達!?」 「待て、慌てるな! あんた達を助けに来たんだっ!」 香織を抑えるツァイン・ウォーレス(BNE001520)が気遣えど、取り乱しは抑えられない。 「おや、これは随分な言われようだね」 「わたくし達相手でこうだなんて。この父親に……健気な娘さんねぇ」 肩を竦めた無明に対し、『嗜虐の殺戮天使』ティアリア・フォン・シュッツヒェン(BNE003064)はくすくすと笑い、華奢な掌でツァインに見えぬ鎧を与える。 しかし、取り乱したとはいえ父親は後ずさるだけ。彼は『生き延びる』以外の何もしないだろうと、予想が立つ。 それは、なんて――「哀れな男」 ――私には父親がいない。 想像の中の父はドラマのように優しい人だと思ったこともあったのに。 (これが、父親――?) 半濁した疑問と息を殺し『十字架の弾丸』黒須 櫂(BNE003252)が母親を背に庇う。呆然とへたり込んだ母親と父親を横目に唇を噛んだ。現実の只中、香織の父は、母は、彼らだけだ。 「俺も思う所も言いたい事も多々有るけれど、今は彼女を止めなくてはね」 ゆらりと華が揺らめくように、『彼岸の華』阿羅守 蓮(BNE003207)がその前に進み出た。 彼女に確定した未来はもう一つ。香織の自我はいずれ潰えると。 (思う所は有るけれどね。このまま家族に何も言えずにさよならなんて、あんまりじゃないか) カチリ、カチリ、針が進む。 交わされる一撃、二撃。 ツァイン、リュミエールが香織の前後に立ち、父親を鋼児が、母親を櫂が庇い、その櫂の前に蓮が立ち、ティアリアは母と父の間に立つ。そして、剣劇の間によたよたと奥部屋から現れたぬいぐるみは香織の傍ら。 さて役者が揃ったと、薄らと電光を帯びた刃を撫で無明は目を細める。 「さあ遊具達、おやすみの時間だ。君達の道行はこの刃で照らすとしよう」 動き出したぬいぐるみ。ランディ、無明が左右に分かれ、刃を振り上げた。 赤髪が戦気にざわめき、斧が閃く。 重く刃は沈み込み、エリューション化した茶色の布が裂けていく。 「てめぇらにも、やらせられねぇんだよ」 メンバー内で最たる火力をもって、ランディがぬいぐるみの一体目、くまを鎮圧。 両断したくまから、綿と一緒に細かなビーズが散乱し、ばらばらに音を奏でる。 無明が光の鎧を纏う隙を縫い、列の中にいぬが転がり込む。それを阻んだのは蓮だ。 「君はもう、言葉一つに恐がらなくて良い」 棍を振るい、蓮は語りかける。 「人知れず隠れて泣かなくて良い。家族の為に自分を圧し殺さなくて良い」 「私は、……違う」 振り切るように香織が頭を振り、蓮は心の内で苦笑する。その否定こそ肯定だと知らず、少女は言うのだから。 既に、素直に吐露し救済の手に縋るには大人になり過ぎていて、哀れまれるような子供だと認められるほどに大人ではない。 「引き留めてくれて感謝するよ」 ぬいぐるみにすいと降される魔落の鉄槌。 柔らかい胴の布を裂いて、磨かれた木目の上に綿を散らす。 白布から覗いた片の青で見下ろし、彼女はおやすみと口ずさんだ。 「短い人生ダケド2回生キチャダメナンダ」 「……2回」 天井から降りた少女はとんとんと肩を叩いて慣らす。 一小節を繰り返して香織は黙り込んだ。微かに震えた瞼を見るに、死の実感があったのだろう。 「今楽にしてやるから安心シロ」 次いだ言葉に顔を上げたのは香織の肩越しに位置した母親。 双眸を眇め、されど行動に淀みは生まれない。くるりと指先で遊ばせ、二本の指で刀身を挟み。 「ソノ前に面倒は勘弁シロヨ」 ナイフは空を裂き、父親が密かに取り出した携帯電話に突き立つ。 淡々と掃除を終えたリュミエールは次のナイフを手に取った。 父親の反応も、父親そのものにも無関心に、一投する動作の内に銀と翠どちらの一瞥もくれず。 再度少女は床を蹴り、最高の速度へ加速した。 「香織!!」 壁を足場に変えた少女の手から飛ぶ風を纏った刃に、香織の身体に赤い筋が浮かぶ。 それに叫ぶのは母親だった。香織に面したツァインが苦しげに眉を顰め、現実を告げる。 他に選択出来る術を、本当なら探り、突き止め、成したい心を押し込める。 「すまないが……こうなっちまったら娘さんはもう助けられない……」 瞬間、櫂の背と肩に強い負荷がかかった。 何事かと瞬いた。しかし、ツァインの背に掴みかからんばかりに乗り出した母親の姿を目で捉えて理解した。 「これ以上は、危ない……っ」 櫂は前のめりになりながら、弓引く腕を止めて広げ踏みとどまる。 一般人とリベリスタの力の差は歴然であり、止められないものではない。 母親を背にしたまま、じりじりと廊下へと後退する。――香織の滲むような嫉妬を受けながら。 「ツァイン達も言ったでしょう。残念だけど手遅れよ」 母親の背にティアリアが手を添え、語りかけて移動を促す。 「貴女の娘さんはもう死んだのよ。気持ちはわかるけれど、大人しくしていなさい」 「香織が、止めて、お願い。どうしてその子なの! やめて、殺さないで!!」 ティアリアの声も制止も、会話には遠かった。 櫂の肩を掴む手はあらん限りの力任せで、繰り返される言葉は止まず。 ただ、その手は空を切る。 どうしてこうなってしまったのだろうと、嘆いても世界は変わらない。 「落ちつけ! 止めて欲しかったんだよな? 分かって欲しかったんだよなっ?」 「だめ……時間が、無いの。お願い、通して。お願い、だから」 愚直に一心に、香織は父親を目指す。気を逸らさなければ、阻める。 (こんなにも親思いの娘さんがいて、なんでそんな事しちまうんだよ……) やり場のない感情を、彼は自分の後ろに居る父親へ投げかけた。 「おいアンタ! この子はな、今日クリスマスは家族で一緒に過ごそうって言おうとしてたんだよ!」 少女と同じ、真っ直ぐな訴え。 「アンタに分かって欲しくて、二人に仲良くして欲しくて……!!」 振るう大剣はいつもより重くすら感じながら、ツァインは道を――本当なら、通したい道を塞いだ。 少女は代弁される言葉に泣きそうに顔を歪め、もう一度「お願い」と呟いた。 「……だったら、何なんだ」 無常な独白の返事は刃の音に紛れ、ツァインには届かない。 父親の守りに徹した鋼児が代わり、決まりが悪そうに重い口を開く。 「……親父さん。もしかしたらよ、今は香織センパイを鬱陶しく思ってるかもしれねぇ」 だって、生きてりゃ嫌なことがたくさんあるからよ。 ストレスだって溜まるだろうさ。 「でも、思い出してくれよ。香織センパイが生まれた時のことを。嬉しいとか、思わなかったのかよ」 返る沈黙。 視界の端、顰められた眉に胸がざわめく。 「何か、感じただろ」 ただ記憶を掘り起こしているのかもしれないが――掘り起こさなければならないほど奥に仕舞われた感情かと。 焦れた。 鋼児の幸福で破天荒な家族なら、一秒も待たず二言もなく、返してくれるはずの答えが聞こえない。 擦り抜けたねこが飛びかかり、なおも鋼児は香織の父を庇い、心身を襲う痛みに耐える。 「……センパイ。俺は親父さん、死なせねぇぞ。ぜってぇ、死なせねぇ」 小さな個体のフェイズ1。されど可愛いぬいぐるみだと言える余裕などない。 父親の命を放棄すれば、この傷も負わない。エリューション討伐という目的を達成するだけなら、世界の秩序を守るだけのリベリスタなら、一個の命を放棄した方がいっそ合理的だ。そう、頭では分かる。 だが、違う。 (石黒鋼児は認められねぇ。リベリスタの俺じゃねぇ、14歳のクソガキとしての俺が、認められねぇ。 クソ親父かもしれねぇけど、香織センパイにとっては世界でひとりだけの、大切な家族だからよ) だから、喪わせるわけにはいかないと、歯を食い縛り、歪む視界を叱咤した。 「私も、貴方は死なせない。法で裁けなくとも、その罪を時の中で償わせる」 彼は香織の親だから。そして、香織の手を汚させてはいけない。彼女は、彼女のままで眠らせたい。 母の慟哭から一瞬だけ耳を背け、櫂は弦を軋ませ真っ直ぐな矢を放つ。 一矢は鋼児の腕に食いついたぬいぐるみの横っ腹を貫いて、ぼたと落ち。 二人はすぐさま体勢を整え、ねこの黒々とした瞳に蒼白な男の顔だけが反射していた。 「君は死んだ、それは紛れも無い事実だ」 棍を伝い、足元に血が滴る。 「けれど、君はまだここに居る。……伝えたい事は無いか、言いたい事は無いか」 浅くなりゆく息が無音で答えても、破戒僧は説教を止めない。 「無い何て言わせない。君が今止まれないのがその証拠だからだ」 大剣と爪が何度目かの弾き合い。一本が欠けた。 「これで最後だ。全部ぶちまけて逝きなさい」 「変な、お坊さん」 迫る崩壊の足音。ぱらぱらと音を立てて、床の破片が抜けていく幻想を見る。 「私は、幸せよ」 これで十分。 十分すぎる幸福の時間。 ああでも、もう、終わりの時間ね。 ●崩壊 最期の言葉を遺して、香織が香織であった自我は崩壊した。 獣然と彼女は跳躍し、爛々と瞳を輝かせ豹変。 『ごめんなさい』 首裏を撫でたリュミエールの刃が爆ぜ、くるりと宙で身を捻る。天井に着いた足の痺れに舌打ち。 「突然過ぎンダロ」 「備え甲斐のあること」 魔力の循環を体現するようにティアリアが柔らかな布地を翻す。 癒しと宿りの盾を、大剣を突きたて踏みとどまったツァインへ、哀れな男の代わりを引き受けた鋼児へ。 その中で衝撃に構えた櫂は肩透かしに瞬いた。その背にはひとりの人。 対象的に跳ねられた体をがばりと起こした鋼児は前のめりに父親の前に再び滑り込み。 「センパイ!」 息つく間もなく黒鋼で切っ先を逸らす。天使と彼自身、二重の鎧が傷を浅く変質させた。 香織と鋼児の合間に電光刃が踊り、結われた金糸が舞い上がる。 「彼を庇うと思うと気は進まない、この際、君を庇ったと思おうか」 揶揄めかして虚空一閃。厳しく厳かに眩い黄金が不穏を焼き、本来の力を手繰り寄せる。 「母親を守りたかったんだな、お前は」 弓矢を番え直した櫂に微か口角を持ち上げた彼は、少女の眼前。 間合いを詰め勢いを殺さず、上段から重量をぶつける。 「だからこそこんな事で手を汚してくれるな!」 床板に打ちつけられた。まだ少女の頸は落ちない。 執着。執着。怨嗟の欠片も纏わず、そして少女の耳は機能せずに微笑んだ。 香織は体を強引に捻り、ランディの腹を蹴り上げ跳ね除ける。 『さようなら』 頭上からは風のナイフ、風切りの刃が腿を裂く。 恐れもなく、大きく踏み込む異形の姿へ、短弓の弦が震える。 いつの間にか慟哭は止んでいた。 放たれた星光が幾条にも重なり、黒ずんだ紅が散る。 獣の爪が伸びた先、待ち受けた男の頬を黒紅が汚す。 研ぎ澄まされた刃が逆袈裟に走った。 死をもたらす刃と爪が互い互いを削り――それは光を失う。 「こんな世界でもこんな運命でも、次は笑顔になれると良いな」 迎える真紅の腕に香織の身体は崩れ落ち、鮮血の中に一緒になって膝を浸した。 蓮が一つ一つの動作に体を軋ませながら、横たえた香織の傍らに腰を下ろす。 派手な音を立てた頭を擦るついでに寝癖を寝かしつけ躯を見遣った。お世辞にも綺麗だと言える亡骸ではないが、それも証といえるだろうか。 「君は、良く頑張った」 君の恐怖も、孤独も、悔恨も、凡て涅槃に送り届けよう。 その身は彼岸の花。去り逝く少女に、餞を。 ●終わりの時間 「やあ、君はとても善良な人間とされているようだ」 コツコツとブーツの踵が床を叩き、父親へランプを翳した無明の表情は至って明るい。 「だが何故、彼女へその善良さを向けてあげられなかったのかな?」 ――いや、仕方ないさ。人には身の程というものがある。家族は君には重かったんだろうね。 明るく、そして白磁の陶器人形に触れた冷たさで薄く微笑み、戦いを終えたリベリスタを振り返った。 天使の歌を紡ぎ終えティアリアが傍らにしゃがみこんでいた二人に顔を向ける。 「気絶しただけよ。精神が壊れる直前の防衛反応でしょう」 鋼児がちらと見れば、じっと気絶した母親を見つめ櫂は緩慢に唇を開く。 「香織はもう居ない」 ああと、隣から低い声が呻いた。 「……香織センパイとはもう二度と会えねぇ」 死人としても死を迎え、彼女は動かない。 「何か言う事は、ねぇのかよ」 父親へ向けられた、最後の問い。 沈黙は重く、長く。 「……すまない」 応じたのは、手向けにはあまりにも安く、使い古された陳腐な言葉だった。 それでも、それはまるで純粋な後悔のようでもあった。 「娘さんは俺達が……っ!」 それならと身を乗り出した青年の言葉は途切れる。 ランディの掌がわしゃりと金の髪を乱し、止まった言葉と共にぱっと離した。 「この力を、起こった事を見て恐怖するだけならお前達は一生変わらねぇ。 いいか、怪物足りえるかは力じゃない。『心』だ」 後悔の底、力への怯え、少女も化け物だと蔑みを孕んだ排他的な視線が、勢い良く外される。 薄い唇は血色も悪く、立てるならその場から逃げだしただろう。 「君の生きる道だけは私達が照らしてあげた。もっともその後、君がどうするかまではわからないけれどね」 「だけど、香織さんが最後まで願ってた事だけは、忘れないで欲しい」 言いそびれないように、ツァインは少し早口に――そして、櫂は後に彼女にもう一度告げることになる言葉を紡ぐ。 「香織の分まで、生きて」 一室の玄関。 遠くに響くサイレンをBGMにリュミエールが扉に凭れかかる。 ツァインの強結界が薄れてきたのか若干、人の気配が濃くなってきた。 「オッサンに生きる価値ハネーケド、死ぬ価値モアンマネーシナ」 ぼやくリュミエールに、母親から離れたティアリアが口元に人差し指を添えて笑む。 「そうね。でも……ただ殺される絶望感より、生き長らえ罪を背負う方がより長く苦しめるわよ」 嗜虐的な天使の微笑みを横目に、音狐は相槌まじりの欠伸を噛み殺した。 冬の夜、ひとつの悲劇は幕を下ろす。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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