●一歩
秋晴れのキャンバスが見下ろす風景を涼やかな吐息が撫でつけていく。
その日、街は――三高平市は活気に満ちていた。
それは何処か浮ついた希望の発露である。溜めていた想いの解放である。
千里の道も一歩から、ローマは一日にして成らず。
或いは幼い頃、寝物語に聞かされた兎と亀の物語でも良い。地道な努力を尊び、地歩を固める事を勧めることわざや寓話は世間に溢れていて事欠かないものである。
確かに何事も始まりの第一歩というのは大切なものだ。為すべきが大きい程に、積み重ねなければならないモノが大きい程にその土台を固める事は重要で、それを疎かにする事は先々の大変な失敗に繋がる危険であると言える、それは確かな事実である。
……とは言え、口で言うならば簡単でも、実際にそうしてみるのは易くは無い。
人はともすれば性急に結果を求めたがる動物である。地道な努力が楽しいという人間は決して多く無い。
分かっていても焦る事もあれば、結果を出せない日々に煩悶とする事もある。
人知れぬ苦労やら、報われぬ日々やら。そんな『大変さ』の上に『始まり』があるのだから、今日、この街が特別に沸いているのは必然だった。
黒々と横たわるアスファルト。そこかしこに残る建設中の建物と、取り残された重機達。
ピカピカの新造都市の顔そのものは昨日からその姿を変えては居ない。しかし、昨日と今日とではこの街は全く別の意味合いを持っていた。
市の中央に聳える三高平センタービルの一室から全ての光景を俯瞰して時村沙織は呟いた。
「やっとこの日が来たんだな」
普段冷静な彼の口調の中にさえ僅かな熱が篭っていた。都合八年にも及ぶ大計画。『地道に』取り組んで来た彼の胸に去来するものは少なくない。
「ああ。やっとだ」
それは彼に応えた真白智親の言葉も又同じだった。
期すべきものがある程に、強い想いを持っている程に――結実の時間は胸を衝く。二人の持つ因縁と事情はそれぞれ別のものだったが、経緯はどうあれ似た感情を覚えている事は確かだった。
――プロジェクト・アークがその実を結ぼうとしている――
単純にして絶対の事実は二人にとって一つ目の勝利の美酒だった。
眼窩の街に彩りの気配が増え続けている。
彼等の足が目指すのは、この中央エリア。一際存在感を示すこの摩天楼。
見慣れぬ顔達は何れも今日という日を意味のある一日に変える、始まりを始まりとする為のワンピースである。翼のある者、尻尾のある者、巨大な機械のようである者――丁度ハロウィンを思わせる光景はその実圧倒的な現実だった。
つまり、集まっているのだ。今この場所に。ナイトメア・ダウン以後寸断されて久しかった、日本のリベリスタ達が。その大戦力が。
「さて、浸ってばかりもいられねぇぞ、沙織」
「ああ」
今度はやり取りを逆にして、そう言った智親に沙織は小さく頷いた。
始まりが格別の意味を持つのは、『始まる瞬間のみ』である。
誰が為に今日があるのかは――愚問である。何の為に今日があるか等、考えるまでも無い。
ならば、これから為すべきは――
「準備は出来てんだろ?」
「出来てる筈だけどな。エフィカはともかく、梅子のヤツはぶーたれてたが」
「まぁ、そうだろうな。……で、自慢の娘(イヴ)はどうした?」
「下手なウサギを描いてたよ。飾るんだと」
やや相好を崩した智親に沙織は小さく肩を竦めた。
「ルーキー君達も……俺達も。最初ってのは肝心だからな。まぁ、上手く親睦を深める事としましょうかね」
――為すべきは、千里の道も一歩から。まずは兎に角歓迎会である。
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