「……あれ、誰かと思いました」
「ひ、ひどいですね!」
「だってあのコスプレしてないの初めて見ましたよ」
「あれはコスプレじゃないんですけど!?」
カウンター越しにこちらへ書類をよこした男は、チノパンにシャツにカーディガンという――彼の普段の格好からするとおそろしく普通な――格好をして、私をきっと睨みつけた。見えないふりをして渡された書類へ目を通す。
「今日は休暇申請ですか。えーと、一週間。ご旅行で?」
「はい、ちょっと実家に」
「このところは切羽詰まってるってわけでもないですしね、問題無いと思いますよ」
「そうですか、よかったあ」
先程怒っていたのをもう忘れでもしたようにだらしなく笑うその顔は、左半分を包帯とガーゼで覆われていた。
「そのお怪我は……」
「ああ、ちょっとこないだの仕事で。何回やっても慣れませんねえ」
そう言って照れ臭そうに笑う、彼は英雄ではない。
世界のために戦っているのは事実であるし、彼のその力は並程度のエリューションよりは余程強い。非戦闘員の私とは比べ物にもならない。
しかし、彼は英雄ではないのだ。英雄と呼ばれる一握りの、多大な犠牲と引き換えに栄光を掴んだ彼ら彼女ら。アークという組織の最前線、選ばれし剣の研ぎ澄まされた切っ先。彼はそういったものではない。
彼はアークの精鋭ではないし、特別強大な敵を倒したこともない。今でも簡単な仕事で怪我を負うし、つらい仕事の後は家に帰ってめそめそ泣いている。ということを、事務手続き窓口からこっそり見ていた私は知っていた。
「引退とか。しないんですか」
「えっ、そ、それはわたくしに無職になれと……」
「いやその、なんか大きな転機みたいな感じあるじゃないですか。アーク全体に、こう」
「あー、まあ、そうですねえ」
「旅に出たりする人もいるらしいですし、ほら、今回の休暇もそういうのの前触れなのかなって」
「いや、たまーに顔見せないとおこられるだけなので……」
「そ、そうですか」
なんとなく気恥ずかしくなって目を逸らし、書類を整理するふりをした。これではまるで私が彼がいなくなることを心配でもしてるみたいじゃないか。
「たぶんですけど、わたくしはアークやめたりしないですよ」
「まあ、やめたら無職ですしね」
「ぐぬぬ……なんていうかー、ほら」
彼はその鋼鉄の指先で前髪を一房弄りながら、丁寧に言葉を選んでいるようだった。
「わたくしはたぶん、三高平で生きて、三高平で死ぬために生まれたんだと、おもうので」
しらんけど。そう付け加えた彼は小首を傾げて、私に書類提出証のハンコを要求した。ああはいはいと判を捺した控えを渡す。
「ヘルマンさんのご実家って、やっぱり海外なんですか?」
「ううん、台東区ですよ」
「台東区」
「な、なんですその顔は」
きっと彼はこれからも、この都市と共に生きていくのだろう。
彼は英雄ではないけれど、この物語の主役は彼ではなかったのかもしれないけれど。それでも彼が歩んできて歩んでいく、物語未満ですらないただの道は、これからも続いていくのだ。彼が命を落とすまで、彼が望むままに。
「それじゃあ。ありがとうございました」
「ご利用ありがとうございました。申請が却下された場合のみ、三日以内にご連絡差し上げますので」
「はい。あ、家電じゃなくてケータイにお願いします」
「ヘルマンさん家電ないじゃないですか」
「うへへ」
なべてよは、こともなし。
(おわり)
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