しかし、前述の倫敦の2件あたりから、
この傾向はじわじわと彼の前面にせり出してきます。
そしてついには、
シーカー・ブレインはたった一処の理だ。――――家族を取り戻す。
その為に漣の指輪を共に携えて、生きているのだ
(『<倫敦事変>Arcadia blue』より)
とまで記されるまでに至ります。
いつの間にか、彼と指輪が設定した探求の到達点に、
「家族を取り戻す」という重々しい要素がはっきりと付与されていたのです。
◆現状についての考察◆
1、なぜこうしたことが起こり得たのか
なぜこうしたことが起こり得たのでしょう?
たとえば1つの可能性として、シンプルな究極目標と目される「生物研究の追求」が、
実ははじめから、彼が狂う前から、「家族を取り戻す」ために
行われていたということは考え得るでしょうか?
そう、たとえば病気か何かで、みさきさんの余命が短いことがわかっていて、
妻の人生を伸ばすために彼は生物研究にのめりこまざるを得ない状況にあって……
いいえ、それは想像力の膨らませ過ぎというものでしょう。
第一根拠がないですし、それだと偶然お弁当を届けに来たみさきさんを
そのまま改造したという経緯もいまいち不自然。
そして根本的に家族を「取り戻す」という単語は、やはり家族を「失って」から、
あるいはその記憶を植え付けられてから、対応的に出てきたように思うので、
やっぱり前述の仮説には無理がありそうです。
となると、改めてなんで、彼は「家族を取り戻す」志向を持ち始めたのでしょう?
ボクとしては、現状2つの仮説をあげることができると考えています。
1つは、漣の指輪の嗜好が大きく影響している可能性です。
悪名高いW・Pシリーズの1つであるこの指輪の本当の性格・目的・意識は、
すでに倫敦での邂逅で明らかになっています。
表層に出ているのは漣を楽しませるだけの道具(じんかく)でしかないのだろう。
本物の海音寺政人はきっとレンズ越しに自身が行う所業を見てきたのだ。
それは、予知夢を見る娘の状態と同じ。干渉できず、ただ、ただ観測することしかできない。
優しく純粋で真っ直ぐだからこそ。
故に、『精神を壊し続けて』漣を喜ばせているのだ。
(『<倫敦事変>Arcadia blue』より)
このように、漣の指輪の真の能力は、すべてをかなぐり捨てて、
非道に純粋に狂気的に目標追求を行う人格を「表」に、
それを傍観する従来人格を「裏」に、分け隔てて存在させることにあります。
同時に、漣の指輪の本質は、従来人格が表の自分の残虐な探求行為を鑑みて、
心を壊していくその様を、暗く愉しむところにあるといえます。
とすると、指輪の立場からすれば、
自分が後押しする形で切り捨てさせた最愛の「家族」を、
きわめて歪んだやり方で彼自身に取り戻させようとするというのは、
とても愉しい遊びであるはずです。
なにせ、究極目標に至るためのすべての残虐行為は、
彼がもともと大切に思っていた「家族」のために実行されているわけですから。
ある種、最高の穢し方、最高の壊し方。
従来の彼は大層苦しむでしょうし、指輪は大層悦ぶことでしょう。
この「壊す愉しみ」を徐々に加速させていった結果、
表の海音寺政人の行動目標に、「家族を取り戻す」志向が
色濃く出てくるようになったと考えることは可能そうです。
ただ、もう1つ考えられるのは、狂いきれない海音寺政人本人の残滓――
家族を切り捨て、失い果てたことへの名残・後悔・慙愧が、
半ば無意識的に、ぬぐえぬ呪いのように、
「生物研究の追求」という目標に絡みついていった可能性です。
最初の戦場で、妻であった『ケープ』を思わず庇ってしまったり、
それを壊されて激昂したり。
直近の戦場で、なぎささんの模倣体を壊され、
ソレを研究対象と切って捨てながらも動揺したり。
海音寺政人という男には、どこかそういう不安定なところがつきまといます。
行動は『シングルライフ』にのっとっているはずなのに、
心情は時折『シングルライフ』を裏切ろうとするといいますか。
(だからこそ、そのちぐはぐさと矛盾には、より狂気を感じるわけですが……)
おそらくそれは、表の人格が、従来の彼の人格から
完全には独立し得ないことの証左なのだと思います。
そう考えたとき、彼が内心で抱いているであろう家族への思慕と後悔が、
無意識的に、逆説的に、指輪の助けを借りて一度設定された
「生物研究の追求」という目標を規定し直していったという事態は、
重々考え得るのではないでしょうか。
そして、海音寺政人総体が自己矛盾をきたして悶える様も、
裏の彼の苦しみにつながるでしょうから……
指輪としてもその状態を許容するはずです。むしろ悦ぶはずです。
つまり、海音寺政人が従来の性質を捨てきれないままに、
探求の道を狂い堕ちていった結果として、
シンプルだったはずの「生物研究の追求」という目標に、
「家族を取り戻す」という要素が付加されていったと想定するのも
ここではアリなのかもしれません。
正直、2つの可能性のどちらが、
いまの海音寺政人のあり方に寄与しているのかはわかりません。
両方的外れかもしれませんし、両方が作用しているのかもしれません。
ただ、ここまで考えておいてなんですが、
本当に大事なのは行動の「理由」ではないようにも感じています。
2、それは何を意味しているのか
そう、本当に大事なのは、このことの「理由」ではなく
「意味合い」なのではないかと思うのです。
つまりそれは、海音寺政人の研究を極めるという目標に、
「家族を取り戻す」志向が色濃く加わっていることが、
一体何を意味するのか、という観点であります。
(手記の―4―へ続く)
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