しかし、身を焦がすほどの憎悪と怒りにはそれでも出会えるように。
親しい人間を殺されたら怒るものなのだということをわたしは漫画で学びました。
体験したことはございません。
親はわたしを養ってくださったありがたい方々ですが、特別かと言われればそうでもありません。少なくとも理解者ではあり得ませんでしたし。
この稼業に身をやつしてもう逢うことがないのだと自覚した時も、悲しさや空しさなどの感情は発生しませんでした。
親しいと言えば、わたしがいま気まぐれに養っている養女に対する者の方がずっと親しく感じています。
彼女が酷い目に逢えば、わたしは多少取り乱すような気がします。誰かに酷い目に遭わされれば、許しておけない気がします。
ああ、親はわたしをこんな風に思っていたのかもしれません。信じるつもりはありませんけど。
そして娘もかつてわたしが親に対して感じるように――感じないように――極めて軽い親しさしか持っていないのかもしれません。
わたしは彼女の興味を引きたい。大切な人になりたい。
わたしの親もわたしに対して彼らなりにわたしと仲良くしたかったのかもしれません。
でももう遅いんです。もう終わってしまった。
時代が、価値観が、あなたがたとわたしとでは全く違っていて、わたしもあなたがたもお互いを受け入れる余地など全く持ち合わせていなかった。
物理的に最も近くにいた人物が相容れない存在であるということはストレスフルです。ああ、きっと親もわたしをストレスに感じていたことでしょうよ。
お互いにそう生まれ、そう育った。生まれ損ない育ち損なった。
鳥と魚と犬が一緒に住むような有様だった。
「あのときああだったなら」と過去のいろんな場面を思い出して思います。しかし、「あの時ああならないわたしたちだから」そんな場面になってしまう。
演算を至上とするプロアデプトとなった今ならわかる。
人づき合いの理不尽はちっとも理不尽じゃない。生まれがそうだから、育ちがこうだから。どうしようもない事情で人を傷つけ人に傷つけられ人を愛し人に愛される。
変数と方程式はもうとっくの昔に揃っていて、答えはとっくに出ている。出続けている。
それでもなおコギトエルゴスムと言い続けるしかない。
親しい人間を殺されたら怒るものなのだということをわたしは漫画で学びました。
体験したことはございません。
願わくば、体験することのないように。
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