自分の気分に世界が合わせろってことです。
わたしのような劣等感をアイデンティティに変換して生きてきた人間にとって、自分が平均以下の生き物であることはとても大事なのです。
より厳密に申し上げるならば、「わたしはどうせ最低だから」と思いこむことで落ち着く境地があるわけです。
一方で、そうやって自分のことが最低だという結論が出た後、ではこの鬱積した気持ちはどこにやるのだと脳は考え始めます。
恨む気持ち憎む気持ちの果て、「わたし如き最低の人間に構うなど奴らの方がそれ以下の屑じゃないか」という結論が出されるのです。
「最低な自分に構うやつこそ真の最低」
こうして脳内ヒエラルキヒの逆転が発生します。
いや、逆転などしていないのです。「自分は最低」ですが、「自分を苛める奴」を自分より上に置いているわけではないから。
自分という人間は飽くまで「平均的な人間の振る舞いも出来ない出来そこない」であって、それを考慮する場合に、自分を苛めている奴らなど一顧だにしないのです。
そして、自分を苛めている奴らのことを考えた際に、「自分は人間未満である」「しかし彼らはわたしを苛めている肉き敵である」という認識が融合して、「最低な存在でありながら尚も見下す」という矛盾が成立するのです。
簡単な話です。
自己憐憫に浸りたいとき、世界はわたしのことを「どうせあいつだから」と扱ってほしい。その方が楽だし落ちつく。
恨みある相手のことを考えるとき、世界はわたしのことを「かわいそうに、味方になってあげる。あいつらは当然悪い奴だよねうんうん」という態度を取って欲しい。
それが叶わないのは分かっています。
叶わないことと求めないことは一致しないと言うことです。
矛盾しているからと言って、事実の方が曲がるわけではないのですよ。
言葉ジリを取り上げて上げ足を取るのは、その言葉ジリこそがその方にとって我慢ならない、何か言わずにおれないとげだったからです。その際に全体の論旨などどうでもよくなるのです。
論争と言うのは大抵の場合、言葉ジリへの反感から反論し、「論旨とは異なる」という的外れな再反論で泥沼に向かうものです。
わたしたちはどこまでも感情駆動エンジンなのです。
だからよそったご飯をつまずいて丸ごと落っことした怒りでテーブルを叩き割っても仕方のないことなのです。
|