命に値段を付けよう。
意識し、思考し、感じることのできる自分自身と、どこまで行っても哲学的ゾンビでないことを証明できない他人とで、どちらの方が価値があるのか。
わたしは圧倒的に自分自身の方に価値があると考えます。
ダブルスタンダードという言葉があります。
二つの異なる、決して両立しない理屈を言い張ることです。
大抵の場合、他人には強制を、自分には自由を求める気持ちから発するものです。
全ての人間は勉強し努力しなければならない。
けれど自分は勉強したり努力したりしなくていい。
差別は良くないことだ。
けれど敵性種族は排除しなければならない。
こんなのは言ってしまえば当たり前です。
自分に都合のいいようにあって欲しい。それがすべてなのですから。
それでも人間は理性と理屈に縛られる生き物でもあります。自分で決めたルールを破るのは悔しい。復讐が何も生み出さないと分かっていても、「悲しみと怒りの原因を排除」しなければ気が済まない。
矛盾を感じる有様ですが、人間の合理性は本能から発するものであり、何千年の淘汰の果てに勝ちえた、そしてこれからも進化し続ける特性のひとつなのです。
理性は本能の一部である。ゆえに、理屈は感覚から発せられます。
わたしにとって、他人は価値がない。その感覚から「他人を踏みにじってもよい」というロジックが発露する。
ある人物が本能的に悪であるならば、そこから生まれるその人物の理性もまた邪悪なものになります。
わたしにとって価値の無い物は滅ぼしてもよい。
「滅ぼしてもよい理由」は、その気持ちから勝手に紡がれるものです。有害だから、怖いから、気持ち悪いから。そんなものは全部後付けだが、しかし人間は理性と理屈に縛られる生き物であり、理屈なしに悪を行うには呵責が発生してしまう生物なのであります。
蚊を殺した。
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