嘘は嫌いだが、真実だって純朴とは限らない。
ああ、誰も彼も自分より弱ければ良いのに。
と自分が思っているのだな、と、朝錬の最中に唐突に気がついたりしました。
夜明け前の早朝鍛錬は今でこそ惰性の行動でしかありませんが、当初の理由は自分の力を増強することでした。
目的、ではありません。
目的は、「自分より弱い人物を少しでも増やすこと」。
だから、たとえ自分が全く強くならなかったとしても他の全生命体がわたしより弱くなってくれればそれで目的は果たされるのです。
これも実は師匠の教えではあります。
師匠の師匠は、鍛錬中毒と言ってもいいような人物だったそうです。理由は「自分の手で確実に殺せる相手を少しでも増やすため」。
相対的に強くなることではなく、相対的に他の全てが弱くなることを目指して鍛錬しているのだと。
相対的に強くなることと他の全てが弱くなることは、同じようで微妙にスタンスが違います。
強くなることは階段を上がるイメージですが、他の全てが弱くなることはあるがままの自分で他を見下すことが出来るイメージです。
なんとなくわかって頂けるでしょうか?
「自分が変わることで少しでも状況をよくする」という発想ではないのです。
「あるがままの自分が何より最強、最高、一番。それを裏付けたい」という発想なのです。
これは苛められっ子だの虐待された子だのでないと少し理解しがたい感覚かもしれません。
「自分はダメな奴だ、自分はどうしようもない最低の人間だ」という自己卑下はある意味で心を安定化させます。
しかし人間の脳は自尊心の欠如を許容できないらしく、これに対応してもう一つ、このような発想を行います。
「こんな最低な自分より劣るやつはクソだ。」
「こんな最低な自分を苛める奴は自分以下だ。」
「こんな最低な自分であるはずがない、本当は自分はこの世で最高なのだ。」
極端な卑下には極端な自己肯定を。
何だか山月記の一節を思い出させるではありませんか。
他人をむやみに見下す人物は大抵このような思想にとらわれていると考えています。彼らはそのように思考しなければ自我や理性を保つことができない。
人間の脳は元来完全に純粋な奴隷根性を許容出来ない作りになっているようです。
わたしも学生時代はそれなりに暗黒でございましたから、「もっと強くなりたい」のではなく「今の自分が既に強くて当然」という思想にとらわれております。
無条件で自分を肯定するには、自己卑下の内容を否定するしかない。極度な自己否定、自己卑下の否定は、極度な自己肯定になります。
なります、というか脳がそう求めてしまいます。
宇宙の帝王フリーザは言いました。
「俺に殺されるべきなんだ」と。
悟空の言う、「もっと修業してもう一度戦おう」という提案を聴きもせずに。
今のわたしはそれを笑えない。
見下したい気持ちも
殺したい気持ちも
否定したい気持ちも
同情を求める気持ちも
何もかもわたしの大好きな「正直さ」です。
それが穢れ切っていたら、もうわたしにはきっと救いがないのですよ。
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