愛の価値が下がるのか憎しみが再評価されるのか。
怒りと言うのは、持続しない感情です。
どんなに怒り狂っても、静かに100秒数えれば心は収まるものです。
それでも尚、怒ったと言う事実を無駄にしたくない、不機嫌であった事実をなかったことにしたくない、と拗らせた時、心には地雷が一つ埋まります。
「この事については怒っていたのだと言うことを忘れるな」
怒りは興奮状態ですから、長持ちはしません。
ですから、怒りより幾分長持ちする「割り切れなさ」に置き換えたうえで記憶の大地に埋めるのです。
これなら怒りそのものが消え去っても尚、「怒ったと言う事実」を消し去らずに済む。
「怒ったという事実」事態を忘れてしまったら、許してしまったのと同義だから。それだけは決して我慢がならないから。
そういうシステマティックな、言ってしまえば「拗らせた」怒りを、憎しみと呼びます。
心の大地に沈めて、しかし決して亡くなった訳ではない。
このつけは必ず支払わせる。
日常生活に支障があるから今は意識しないようにしておいてやるが、晴らす機会があれば容赦はしない。思い出す機会があれば心のままに怒り狂ってやる。
機会が来ずとも憎しみは土に溶け全ての感情と全ての行動に染みわたる。
何しろ、心の大地に沈めた感情はそれ自体が心そのものとなってしまいますから。
一度憎み嫌ったらそれはもう心の有様の一つとしてプログラミングされてしまう。
鎮静化され、日常化した怒り。
それが憎しみです。
では、鎮静化され日常化した好意。
これは愛と呼ぶのではないのでしょうか。
なにもせずとも心の中にあり、何かの拍子に発露する機会を伺っている。
発露する機会がなくとも、じわりと土に染み、日常の全てに影響を与える。
愛や憎しみは感情ではなく、心の歪みようの事なのだ。
さて本日ビールを盛大にシャツにこぼして絶叫を上げたのですがさしあたってこの怒りは何にぶつければ
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