小足を擦れ、崩れるまで固め続けろ。諦めない奴だけが勝つ権利を得る。
先日もこちらに書かせていただいた、奈良県の山里に行った時の話をします。
そこはわたしの師匠の育った里で、師匠の師匠や師匠の先輩後輩に当たる人が住んでいらっしゃったのでした。
わたしの師匠は次期里長ですので、里長の弟子の面通しと言う意味もあり、御挨拶に行ったのでした。
そのとき、師匠の先輩に当たる方から伺った話が興味深かったので、こちらに書かせていただきます。
曰く、「幸福とは、降って湧いた幸運のことなんだ。」
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何故なら、努力や苦痛と引き換えに得たものは、正当な対価を払って得た物に過ぎない。
無駄な努力というものがあるのは、対価に対して相応なリターンが得られない場合が往々にしてある、という現実と一致している。
経験や努力の結果として手に入れた物に価値が無いと言う訳ではなく、それは単に取引の結果なんだ。
だから、得はしていない。やりたくもないことをやって得たものなんだから。その時間や体力を使って、やりたいことをやったりやりたくないことをやらなかったりすることも出来た筈だから。そっちにだって同じ価値があったはずだから。
逆に、いきなりポンと意味もなく100万円を渡されたらそれは間違いなく得だ。
経験が後々で役に立つってのも、「経験が役に立つ機会といきなりポンと意味もなく出会った」と考えれば、降って湧いた幸運に違いない。
だって記憶や経験は役に立たないことの方がずっと多いのだから。それが役に立つことがあるとすれば、それは幸運な巡り合わせなはずだ。或いは、努力や練習と言う投資の方が遥かに上回っている。
重ねて言うが、努力や練習や経験に「価値が無い」と言っているわけじゃない。それを「しない」ことにも同じ価値があるはずだ、ということだ。
努力が報われるのは単に幸運なのであって、努力しなかった人を非難する口実にしてはいけない。
努力が報われるのは単に幸運である以上、成功した人を妬んでもしょうがない。
何故なら成功した人にとっても「思いも寄らない」ことだから。
彼の成功は彼や自分の努力とは直接は関係なく、単に巡り合わせだから。
ならば恨むべきなのは、彼ではなく運命の方だ。
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フェイト、という概念があります。"fate"ではなく、わたしたちエリューション界隈における専門用語として。
「運命に愛される度合い」として語られます。
この力は、アークのリベリスタは誰でもが持っている力であり、これを消耗して致死のダメージから死を免れたり、消費して「勝利する」という運命を引きよせたりできます。その代わり、フェイトを失ったエリューションは破滅します。
大抵のエリューションはフェイトを「持たない」またはフェイトに「乏しい」ため、周りに不幸を撒き散らして破滅します。ここら辺はまだ解明しきっていないようですが、ともかくそういう者のようです。
わたしは、彼の言う「降って湧いた幸運」に恵まれたのです。
確かに他のエリューションと比べれば、わたしは恵まれているのでしょう。
しかし、自分の身の上が幸福であるとは思わない。少なくともわたしの人生を他人にお薦めしたいとは思えない。
幸運は確かに単なる巡り合わせですが、それがわたし自身にとって幸福であるかどうかはまた別の問題なのです。もしかしたらノーフェイスになってとっとと駆除されてた方が楽だったかもしれないのですから。それは誰にもわかりません。
わたしの人生が幸福であったなどと、他の誰にも言わせない。幸運ではあったかもしれません。比較対象がいますから。でも、幸福であったかどうかは、わたしが決めるのです。
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