クズでありたいのさ。
「君はやればできるじゃないか」と言われて無茶苦茶いらっときたのでその理由を考えてみます。
○「わたしは全人類の中で最低なのだ。」=「わたしより劣等な物は人間ではない。」
詳述はしませんが、わたしは幼少の頃から自分に自信が持てませんでした。
その間に逃げ込んだ雑学に、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」てな言葉がありまして、ああ、わたしは謙虚で居ようと思ったのです。
謙虚で、つまりは自分を取るに足らないものだと思う戦略は、自信が持てない自分の心と綺麗に噛みあいました。
謙虚と卑屈の区別がつかなかった--今でもつかない--わたしの心に、ただ一つのプライドが芽生えたのです。
「わたしは全ての人間に劣る。わたしは自分がクズだということを自覚している」
それがわたしのただひとつの支えになりました。
だから自信を持つ人間が嫌いです。
「誰よりも劣るはずのこのわたしでさえ謙虚であるのに、それ以上に傲慢であるとは何事だ!」
そう感じるようになってしまった。
わたしは、自分以外の人間はみな自分より優秀だと思うようになっていました。
裏返せば、自分より劣るような輩は「人間ではない」のです。わたしは謙虚さの無い輩を心から侮蔑し、人外として扱いました。扱います、今でも。
○「君はクズじゃない」って言われることで壊れるプライド
わたしのプライドは、「わたしが劣等である」ということ前提にしています。
したがって、「君はクズじゃない。」「君は普通だ。」「君は出来る人だ。」という褒め言葉は全てわたしのプライドを傷つけます。
わたしは劣等だ。劣らなければならないのだ!
でなければ、わたしが唯一人並みにできていた--と信じている--謙虚ささえも崩れてしまうじゃあないか!
○「わたしと同等の者はクソである。」
わたし如きに劣る者は最早人間ではありません。論ずるに値しない。
同様に、わたしと同等の人でなしはわたしと同程度にクソです。
わたしと同じ程度にヒトに迷惑をかけるリベリスタなど、果たして敬う価値などあろうか?
以上が、わたしがエリューションを憎む赤裸々な理由です。
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