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<インターミッション>
「ああ、随分と過ごしやすい夜になったじゃねぇか」
あれ以来、夜の街は森閑と静まり返っていた。
いい時間の繁華街からも活気がまるで失せている。
不夜城に似た街が暗闇に染まり、夜を我が物顔のように歩いていた人間達がその身を縮こまらせるようにしながら家の中に篭っている。
「愉快、痛快――」
僅かな洒落っ気を含んだジャックの口元は歪んでいた。
今この瞬間にもどれだけ多くの人の口の端に『ジャック・ザ・リッパー』の名が上っているか。それを考えるだけで彼は絶頂しそうになる程の陶酔を感じていた。
世界を一変させた放送と、世間を一変させたその後の出来事の数々は平和過ぎる位平和だったこの国を文字通り『震撼』させるに十分過ぎたのだ。
「どんな連中にもそれなりの使い方はある……って事ですかね」
ジャックの気に当てられた多くのフィクサード、殺人鬼の引き起こした血生臭い事件が列島を揺らしている。短い期間で報道された猟奇殺人の件数は四百件に届こうかという勢いである。神秘界隈の事件の全てが表に出る筈も無いから実数はもっと上だろう。
「全く、御苦労な事ですね。その勤勉さは憧れないが感心はする」
この国の優秀な警察は役にも立たない徒労を重ね、犯人であるジャックやこのシンヤに指名手配をかけ、唯一の騒音となったサイレンを鳴らしながら夜の街での警戒に当たっている。寂しい夜景を見下ろすマンションの一室で今も気楽にウィスキーを呑む『三人』にはまるで恐れる程のものではなかったが。
「……いや、でもああいうのは、ちょっと……」
上機嫌のジャックとシンヤの一方で微妙に歯切れを悪く複雑な表情を見せるのはこの場の三人目――アシュレイだった。
「あぁ?」
「……少し、乱暴過ぎると言うか。
こう……今は余り関係ない人を巻き込むのは……」
「テメェ、何を言ってる?」
「ですから、ああいうのはアークにも――」
二人の殺人鬼の瞳が剣呑と細められた。シンヤは「何を今更」と言わんばかり。ジャックの方はもう少しだけ過激だった。
風切り音に続いて、鈍い音がした。
「――――」
アシュレイの頬を掠め、ナイフが壁に突き立っていた。彼女の柔らかなウェーブがかった髪の毛を一筋散らし深く突き刺さっていた。
「それは、指図か? クソ女」
紫色の妖気を漂わせ、壊れた笑みを浮かべるジャックからは正真正銘の殺気が迸っていた。シンヤは止めない。興味深そうにジャックとアシュレイのやり取りを眺め、グラスのロックを噛み砕いた。
「誰にも、何にも。侵されず、追随を許させない。
今度こそ最高の伝説を。俺は最初からそう言った筈だったがな」
白い肌を一筋伝うアシュレイの鮮血をじっと眺め、ジャックは熱に浮かされたように呟いた。
「ええ? クソ女。テメェとはもう何年になるか。
塔の魔女――テメェはそれを手伝うと、言った筈だったな?」
「平和なやり取りだったみたいに、言いますねぇ」
苦笑いを浮かべたアシュレイは幾らか皮肉めいてそう応えた。
二人の出会いは七年と二十五日前、猛夏の倫敦。彼女がバロックナイツに加わったのも――時同じく。それはこのジャックを介して得た立ち位置でもあった。
あの日に始まった『関係』は余り穏やかなものではない。
少なくとも男女の関係の常識を当てはめるならば、ジャック・ザ・リッパーはいいパートナー足り得なかったのだから。
「悲しいなぁ。『忠実な女』だった心算なんですけど」
「ああ、たった今まではな。
しかし、女狐が俺様に異論を口にした――意味が無いって訳じゃねぇだろ?」
とは言え、ジャックは言う程は猛っていなかったらしい。
彼の全身を覆った鬼気は既に雲散霧消している。嗜虐的に女の肢体を眺め回し、吸血鬼はククッと喉の奥で小さく笑った。
「運が良かったな、クソ女。俺は今最高に機嫌がいい」
「……みたいですねぇ」
「賽は投げられた。今更何が止まる訳でもねぇよ。
この国はとびきり最高のパーティ会場に、俺のシマに生まれ変わる……
人が死ぬぜ。沢山死ぬぜ。ああ、ああ。最高だ。
国中の馬鹿共が慄き、命乞いをする。理不尽に訪れた運命と死を嘆き、恨み、呪う。ジャック・ザ・リッパーの名を呪う。最高じゃねぇか。ええ? アシュレイ」
「……」
アシュレイは苦笑いのまま応えなかった。
応えなかったが代わりにそれを否定する事もしなかった。答えを述べる事が損になる事を知っているからなのか、それとも別なのか。
「まさか、手を引くなんて馬鹿は言わねぇだろうな?」
「勿論」
続いた問いに返された言葉は彼女らしい気楽さを増していた。
「まさか今更手を引くなんて!
忘れないで下さい。ジャック様の伝説には私も用があるんですよー。
今、派手な事を止めたのも――全く皆さんは簡単に何とかしろって言いますけどね。万華鏡(カレイド)の力は私の『9、The Hermit』を越えているんです。何時までも通用はしませんよ。結構ギリギリなんですからね!」
腰に手を当て、少し唇を尖らせて。
「その辺りは少し注意して貰わないと。
本番はもう少し先、伝説の達成にセンセーショナルが必要だったのは分かりますけど、ジャック様の場合、効率が全てじゃないのは分かってますけど!」
拗ねたようにそう言ったアシュレイをジャックはけたけたと笑い飛ばす。
(……やれやれ。どうなんだか……)
冗談のような幕間のやり取りをシンヤは冷え冷えと眺めている。
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