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<謎の男女>
コンクリート壁に囲まれた暗い室内。
常人が踏み込めばすぐに精神に異常をきたしてしまいそうな緊張感の中心に男は居た。
黒い革張りのソファーに投げるように身を任せ、ガラスのテーブルの上に置かれた高いウィスキーをロックで呷る。
「ああ……」
溜息のように吐き出されたその言葉は酷い苛立ちを含んでいた。
「ああ、もう限界だ」
大都会東京。
時代に持て囃された高層マンション、一面の大きなガラス窓から見下ろせるのは無数の星(ネオン)。人も羨む摩天楼に居場所を構え、高級ラベルの酒を水のように飲み干しながらも、男は只管に乾いていた。
「……どうなってやがる、アシュレイ!」
男の口調は荒い。
「あらあら、まあまあ。もう血が足りませんか、ジャック様は」
壁際に立つ女が吐き出した暢気な台詞に投げつけられたウィスキーグラスが砕け散った。
「次、バラすのはテメェでもいいんだぞ。クソ女」
「あはは、それは御免蒙りますねぇ」
豊かな肢体を抱えるように縮ませて「ひんひん」と怯えた素振りを見せた女――アシュレイの言うのはこのジャックが此れまでに繰り返してきた『趣味』を指しているものである。
大都会東京。
無数にも思える人の群れが狭い場所に集まれば歪みが生まれるのは必然だ。不夜城の澱んだ夜に些細な神秘が瞬いたとて、誰に気付かれる筈も無い。目を血走らせ、荒い息を吐き出す男――ジャックがこの半年で人知れず殺(バラ)した数は二十にも及ぶ。万能の神の目(カレイド)をもってしても届かない場所はあるのだ。そして少なくともこの二人は神を謀る術を知っている。
……とは言え、動けばリスクが伴うのも又必然。
「抑えが、抑えが効かねェ……!」
ぜえはあと呼吸を荒くするジャックは自身の両腕をかき抱き、おこりのように身体をぶるぶると震わせている。困り顔のアシュレイに告げるというよりは半ば独白のような一言だった。男の周囲を取り囲む魔性が、たかが数言のやり取りの間に一層強いものに変わっていた。
「もう少し、なんですよ。この国の組織にも接触はしましたし……」
「今、欲しいんだよォ!」
「……困りましたねぇ」
絶叫したジャックにアシュレイは小さく肩を竦めた。
それから、獰猛な獣のように低い唸り声を上げる男の有様に諦めたように嘆息混じりの言葉を吐き出す。
「……では、もう一度だけ」
「おお……!」
その承諾はこの夜が新たな血に染まる運命を意味していた。
誰かのいきどまりを、その運命を変える力は今誰にも無い。恐怖そのものであるかのような血の獣を止め得る者は何処にも無い。
「――ですが、『9、The Hermit』にも限度がある事はお忘れなく……って……」
アシュレイは腰に手を当て、指をち、ちと振るポーズのまま。言いかけて言葉を止め「あはは」と小さく苦笑した。
既に一瞬前までソファに居たジャックの長身が影も無い。
史上最も有名な殺人鬼は、生きているミステリーそのものは、生業の狩りへと出かけたのだ。己が至上の空腹を満たすべく。
「……ま、いいか」
後に残るのは塔の魔女。
霧のように消えた獣が解き放たれたのはメトロポリスの闇の中――
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